「なぜ私が逃げなかったのかと不思議に思われることでしょうが、それには訳があります。事実、武田などは『デンキ』(通電による虐待)が始まってすぐに逃げ出しました。続いて坂田、そして野間、最後に私で、野間との間は2年以上開いています。松永は誰かが逃げ出すと全員で探しに行かせ、最後は家族にまで追い込みをかけると公言していました。武田が逃げた時も、みんなで探しに行きました。
私としては家族に危害が及ぶことが怖かったのと、自分自身も逃げ出して、もし見つかったらと思うと怖かったのです。それとあと、わずかながら松永に対する尊敬の気持ちも残っていました。そうした事情が重なり、逃げ出せなかったのです」
なにかヘマをした社員に対し松永が「デンキをしろ」
ワールドの経営が苦しいにもかかわらず、松永は1985年4月頃に、もともと自宅があった土地に事務所兼自宅の3階建てのビルを新築した。その際には両親の反対を押し切り、父親名義で銀行から5000万円の借金をしている。当時、まわりにはこれよりも高い建造物はなく、かなり目を引く建物だった。なお、この2カ月前の2月に緒方が自殺未遂を起こし、翌3月に彼女は父の戸籍から分籍している。
松永と緒方が後年に逃亡先の北九州市で殺害した、広田由紀夫さん(仮名)や緒方家の親族6人に対して行った“通電”による虐待は、このビルが完成して1月後の1985年5月頃に始まった。その経緯についても、山形さんは取材のなかで語っていた。
「我々社員は事あるごとに殴られたり蹴られたりしていたのですが、途中でそれに電気ショックが加わりました。我々は『デンキ』と呼んでいたのですが、もともと武田がコンセントを使ってなにかをやっていた時に感電したのが原因なのです。それを見た野口がふざけて私に通電し、昏倒した私を見て松永が、『それ、いける』となったんです。
その際の手法がいつしか社員に使われるようになり、なにかヘマをした社員に対して松永が『デンキをしろ』と言うと、その他の社員が体を押さえつけてやっていたのですが、人体のあらゆる場所に様々な方法でやっていました。当時使っていたのは電気コードの先をむき出しにしたものですが、むき出しにする長さを変え、時には手首や足首に巻きつけたりもしました。ただ、そうすると体にひどい火傷の痕が残るので、できるだけ傷が残らないようにするにはどうしたらいいかなどの改良が続けられました」
他の社員もニヤニヤと嬉しそうに
山形さんが服を捲って見せてくれた腕や足には、15年以上前の通電の火傷によってただれた痕が、そのまま残っていた。
「デンキの90%は私たちが寝泊りする部屋で行われましたが、私は手や足だけでなく、額や局部にもデンキをやられました。延べで100回以上はやられました。手や足は電流が流された途端に硬直するような感じで、やがて電熱線のように熱せられたコードが皮膚に食い込み、焼けただれます。額はいきなりガーンと殴られたようなショックがあります。局部はもう言葉に表せません。蹴られたとき以上の衝撃と痛みでした。松永だけでなく、それをやる他の社員もニヤニヤと嬉しそうにやっていました」