定年退官の1か月前に捉えたニュートリノ
「ニュートリノがカミオカンデに到達したのは、小柴先生が東大を定年退官される1か月前。大マゼラン星雲は地球から16万光年離れていますから、16万年前に爆発した星からのニュートリノが、絶妙なタイミングで地球に届いたわけです。運がいいと周囲からよく言われましたが、小柴先生は、ちゃんと準備していたから捉えられたのだと答えていましたね」
小柴氏がアンテナを広げて取り組んだ二本柱のうち、宇宙線研究が実を結んだのが、カミオカンデの成功のように思える。しかし、山田氏によれば、もう一本の柱である加速器実験と、宇宙線研究は不可分のものだという。
「カミオカンデで使った光電子増倍管を製作したのは当時の浜松テレビ、現在の浜ホト(浜松ホトニクス)です。実は浜ホトの光電子増倍管を、小柴先生が最初に大量に採用したのは、カミオカンデより前のJADE実験です。浜ホトにとって、小柴先生は、いい顧客だったわけです。だから、カミオカンデを作るとき、浜ホトは『おばけ電球』と言われるくらい大きな(直径20インチの)光電子増倍管を開発した上、小柴先生から大きく値切られても、無下に断らなかった。この光電子増倍管が、ニュートリノ検出では大きな役割を果たしました。それから、元々JADE実験で得られたデータを解析するために研究室に導入した大型コンピュータやソフトウェアも、超新星ニュートリノのデータを解析するのに役立ちました。世界に先駆けて結果を出せたのはこのコンピュータがあったおかげです」
「跡取りの教え子たちに次々と先立たれる私は……」
ノーベル賞受賞後、小柴氏は平成基礎科学財団を設立して、基礎科学の啓蒙活動に取り組んだ。その一つが、主に高校生を対象にした「楽しむ科学教室」の開催だ。山田氏も理事として財団の活動を手伝った。
「小柴先生は、子供たちの自主性を重んじていました。中高校生なら誰でも参加できるんですが、親や教師が生徒の代わりに申し込むのはお断り。自分の意志で、ハガキを送ってきた人だけが参加できるシステムでした。とても盛況でしたよ。記録をDVDにして、希望する高校などに無料で配っていました。賞金をすべて財団に注ぎ込んでいましたからね。さすが小柴先生らしいと思いました」
筆者は一度だけ、小柴氏を取材したことがある。小柴研の2期生で、カミオカンデを継いだスーパーカミオカンデを指揮し、ノーベル賞候補の呼び声が高かった戸塚洋二氏が2008年7月に亡くなった後、戸塚氏との思い出を聞こうと思ったのだ。だが、丸の内にあった平成基礎科学財団の事務所で対面した小柴氏は、沈みこんだ様子で、話が聞ける状態ではなく、5分ほどで退出した。