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「トップクォークが見つかるか賭けをしないか」小柴昌俊さんは優しく厳しい“親分”だった

2020/12/22

研究室の学生を連れて京都出張へ

 山田氏が、物理学の研究者を志したのは1949年、湯川秀樹が日本人としてはじめてノーベル物理学賞を受賞したのがきっかけだったという。

「当時は日本中が敗戦で打ちひしがれていました。そんな時代に湯川先生がノーベル賞をもらった。暗闇に射した一筋の光明でした。かっこいいからとか名誉のためじゃなくて、素粒子物理学こそ、日本人でも暗闇から抜け出る道だと、漠然とですが、子供心に感じました」

 東大に限らず全国的にも素粒子物理学の実験をテーマに掲げる研究室は極めて少なかった時代である。子供の頃に将来の夢を思い描き、大学で希望の進路をたどり始めた山田氏にとって、小柴研の新設は幸運だった。

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「最初にお会いした際、『学会に行ったことはあるか』と小柴先生に聞かれたんです。研究室に入る前でしたから、もちろん『ありません』と答える。すると、『今度、京都で学会がある。旅費は出すから行っておいで』と。どうやって旅費を捻出してくれたのか今も謎ですが、とにかく京都に行きました。湯川先生や、クォークの予言に繋がる研究で後に(1969年に)ノーベル賞を受賞するマレー・ゲルマンなど、有名な先生方がたくさんお見えになっていました。会場の隅っこで彼らの講演を聴きましたが、内容はさっぱりでしたね。でも、刺激は大きかった」

©文藝春秋

 国内出張の旅費もバカにならないのに、ハイレベルな国際的学会に大学院1年生を出席させるのは、ある意味、無謀だ。小柴氏の意図は分からないが、はじめて受け持った大学院生に、アンテナを広げる機会を提供したかったのかもしれない。

東京から国際共同研究をバックアップ

 小柴氏自身、アンテナを広く張って、宇宙線研究に加え、粒子のエネルギーを人工的に高め、衝突させて、新しい粒子を作り出す加速器の実験にも乗りだした。

「宇宙線から何か珍しい現象を探すのは、頻度が問題です。ごくまれに宇宙から降ってくる粒子を地球で待つしかありませんし、制御できません。しかし、加速器では、粒子を衝突させる条件を細かく調整できるので、既知の事象については何をすればどういう結果がえられるか見積もることができます」

 山田氏はドイツ・ハンブルクのDESY研究所に送りこまれ、加速器を使った国際共同実験に携わった。これが日本人グループの行った最初の素粒子の国際協同研究で、小柴氏が東京ですべてのバックアップ活動を担い、派遣グループの活動を支えた。

 最初の実験が成功し、小柴氏はグループを拡大し、1970年代後半にDESYで建設が始まった新たな加速器を使ったJADE実験に中心的に参画した。山田氏も加わったが、東京での実験準備中に小柴氏と、ある「賭け」をしたという。