「毎年、先生のお誕生日の頃に『クォーク会』という名前で、弟子とその家族、先生の研究室で働いていた人、併せて40~50人が集まる会を開いていたんです。去年も先生を囲んで楽しく昔話に花を咲かせました。今年はコロナ禍で開催できなかったけれど、来年はやれるかなと思っていたのですが……」

 そう語るのが、11月12日に94歳で亡くなった小柴昌俊氏の弟子の一人、東京大学名誉教授の山田作衛氏(79歳)だ。「クォーク会」は、物質を構成する最小単位のクォークに由来する。はじめは小柴氏が学生たちを自宅に招いて開く新年会としてはじまったが、その後いったん中断、2010年に復活したという。名称はそのままで主催者が弟子たちに移り、開催時期も新年から、小柴氏の誕生日である9月19日に近い、9月下旬に変わった。

小柴昌俊さん ©文藝春秋

 山田氏が恩師の訃報を知ったのは11月13日、昼のNHKニュース番組で、「ノーベル物理学賞受賞 小柴昌俊さん死去」のニュース速報のテロップを目にしたときだった。

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「仰天しました。お元気かな、と気になることは時々ありましたが、またお目にかかれるって思っていましたから」

「夢の卵を常に温めておきなさい」

 二人の出会いは1964年に遡る。この年、東京大学理学部を卒業した山田氏は、大学院に進学し、第1期生として小柴氏の研究室に入った。

「先生が講演でよく口にされる『夢の卵を常に温めておきなさい』というメッセージを、僕も最初に会ったときに言われましたね。やりたいことをすぐにできるとは限らないが、いつかはやれるかもしれないのだから、研究の卵はいつも温めておけって。それから、セミナーなどの内容をすべて理解できなくてもいい、その代わり、自分がやりたい研究に役立つものがないかいつもアンテナを広げておけとも言われました」

「クォーク会」での小柴昌俊さんと山田作衛さん 撮影=板野明史

 小柴氏は、東大理学部物理学科を卒業(本人曰く「ビリで卒業」)、大学院の途中で1953年に渡米。ロチェスター大学で学位を得て、シカゴ大学に就職、宇宙から地球へ降り注ぐ高エネルギーの粒子、宇宙線の研究者としてめきめき頭角を現す。60年には、ICEF(国際協力による原子核乾板飛行計画)と呼ばれる、世界12カ国が参加するプロジェクトのリーダーに抜擢された。急逝した宇宙線実験の大家マルセル・シャイン教授の後を継ぐ形だったが、わずか34歳の日本人が、巨大気球(容積30万リットル)を数万キロメートル上空に打ち上げ、希薄な大気に突入した宇宙線が、気球の運ぶ装置の中で起こす反応を捉えるという大規模な観測実験を率いたのである。帰国して、東大の助教授に就いたのは37歳。20代前半の山田氏にとって「若々しくて、兄貴分のような存在」だった。