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注射器の感触を思い出すと、全身がブルブル震えました

〈私は勇気を出して夫のそばに座りました。震える手で彼のひじのところを触り、目を閉じました。親指に力を入れ、液を注入するのは、素人には難しい作業です。それにクスリの臭いは強烈です。針先が皮膚の下に十分入り込まないうちにクスリの一部が漏れたりもしました。2、3度失敗し、ようやく作業を終えた時には、あたりに、嫌なクスリの臭いが充満していました。

 洗面台に行って石鹼で手を何回も洗い、注射器を元の場所に戻すと、へなへなと座り込みました。

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 ぼんやりして、すこし眠いような気もしますが、身体はタバコを欲しがっています。タバコに火を点けて、ゆっくりと吸いはじめました。その夜全体が、まるで夢のようです。よい夢か悪い夢かわかりません。多分、悪い夢なのでしょう。でも、仕事を終えて解放されたようなほっとした気分もあったのです。

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 ただ、あの小さな、注射器の感触を思い出すと、全身がブルブル震えました。外は明るくなってきました。名前の分からない鳥が鳴いていました。〉

口から白い泡

 茂は、通常大きな鼾をかいて眠るのが常だったが、注射の後は、ピタリと鼾が止み、顔面は青白くなっていった。

 あまりの静かさに、詩織は驚き、とんでもないことをしてしまったのではと戦く。

 茂のそばに跪き「鼾をかいてください! 鼾を、はやくかいてください!」と何度も声に出して叫んだ。体をゆすってもみたが、やはり反応はなかった。

 一度は119番に電話をした、ともいうが、相手の声が聞こえるとそのまま一言も話さず切ってしまった。その時、時計の針は朝の5時45分を指していたという。

 茂が鼾をかくことを祈りながら、ほんの少し寝て、目覚まし時計の音で起きたのは午前7時。慌てて2階にあがると茂が高鼾で寝ていた。

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 詩織はホッとして茂の分も含め朝食の準備にかかった。朝食の支度ができ、茂を起こしにいったのは4月2日の午前8時。

 階段の途中から声をかけたが無反応。近づいて「おはよう」と言ってもまったく動く気配がない。良く見ると、顔が赤く腫れあがっている。とうとう詩織は、茂の体を激しくゆすった。すると茂の口から白い泡のようなものが出てきた。

 そのあと、どうして救急車を呼んだか、詩織は覚えてはいないという。