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2021/01/02

「茂さんが急に目を覚ましたので、なんとなくセックスをしてしまったわ」

 やはり、その日、詩織はカバンを取り出した。しかしカバンを持っただけで体が震えて涙も流れ出した。本当はその日、茂が眠ったら、睡眠薬を使わずインスリン注射を打つつもりだった。だが、恐怖で体の震えが治まらず決行には至らなかった。その日の深夜、久美子に、その顚末を電話で報告した。

〈「時間が遅くなってやろうとし決心したけれど、途中で怖くなって、できなかった。その時、茂さんが急に目を覚ましたので、なんとなくセックスをしてしまったわ」と久美子さんに話しました。2人は、そこで声を潜めて笑いました。〉

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 つい寸前まで、夫に多量のインスリン注射をしようとしていた女が、夫が急に目覚めたと知ると、突然、全裸になり、積極的にセックスを求める。その行為は、自分の企みを気づかれまいと、無意識にとられたものだろうか。一方で性の深淵を垣間見せ、背筋がブルッと震えるような戦慄を感じさせる。

お前が私を追い詰めているのです

 事件当夜に戻ろう。

〈睡眠薬を飲まされた茂さんは、今夜は注射の痛みを感じないと思います。

 鼾音は止みません。熟睡しているのがわかります。ビデオプレーヤーの時刻は24:50(原文ママ)。どうして私を追い詰めるのですか。どうして私に怖いことをさせるのですか。平和に離婚すればいいじゃないですか。私から最愛の息子を奪いとろうとしました。なぜ私を苦しめなければならないのですか。眠り続ける夫に泣きながらつぶやきました。

 何度も何度も声をたてずに泣きました。それでも決心がつかず、また1階に戻りました。長時間泣いたので疲れてしまいました。

 神様よ! 神様よ! 助けてください!

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 ドアを開けて夜空をみあげると、ダイヤモンドのような星が満天に煌めいています。私は星空に答えを求めてみました。でも、悲しみの嘆きが星空のほうから流れてきました。胸がひじょうに痛くなりました。お前に注射をしたくないが、しかし、注射せざるを得ない気持ちをお前はわかってくれますか。お前に注射しなければ私は子どもと会うことができなくなります。私はお前を恨んでいます。お前が私を追い詰めているのです。〉

 逡巡し、詩織は1階と2階を何度も往復する。そして、ついに……。

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