昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

CDB

2020/12/20

彼女の名前を、全て呼べる日のために

 ここからは公開中の新作映画、『あまちゃん』で入間しおりを演じた松岡茉優の初主演作『勝手にふるえてろ』で一躍その名を轟かせた大九明子監督による新作『私をくいとめて』の内容に触れる、いわゆるネタバレをお許し願いたい。すでに大手一般紙の映画評で高評価が相次いでいるように、この映画の中で主演の『のん』、能年玲奈はこれまでの『あまちゃん』、天野アキのイメージを大きく超える多彩な演技の幅を見せている。 

 能年玲奈を古くから知る人には当然のことだが、兵庫県出身である彼女は『あまちゃん』で天野アキという役に出会うまでは、あの独特の東北的ニュアンスのある話し方をしていなかった。天野アキの演技は宮藤官九郎の優れた脚本に、まだ十代の能年玲奈が直感的に肉付けをして作り上げた人物像で、日本中を魅了したそのキャラクターのデザインは、彼女の女優としてのクリエイティビティを示すものだ。 

 ただ一作で彼女を国民的女優に押し上げた天野アキというキャラクターは、能年玲奈の代名詞となり、大衆が彼女に求めるものとも重なった。『あまちゃん』の放送が終了した後も、天野アキの面影、話し方はまるで役が憑依したように能年玲奈の話し方や仕草の中に残り続けた。優れた俳優はよく「役を演じるのではなく、役を生きるのだ」という表現をするが、そのレトリックを越えて、天野アキは役を終えたあとも能年玲奈とともに生きているように見えた。 

 それは新作映画『私をくいとめて』の中で(ネタバレになるが)主人公が自分の頭の中に作り出した幻の相談役Aのあり方と重なって見えた。もしかしたら天野アキは、『私をくいとめて』の相談役Aが主人公を助けるように、この長い神隠しの期間を通じて能年玲奈と共に歩き、生きてきたのではないか。 


 主人公が相談役Aからの自立を描く新作映画は、同時にのん、能年玲奈が天野アキという守護人格から親離れ、役離れしていくプロセスを見ているようにも思えた。それはむろん、アニメ映画『この世界の片隅に』や、舞台『私の恋人』、映画『星屑の町』といった作品たちを通じて彼女の中で少しずつ進んできたプロセスの結実の瞬間なのだろう。

 橋本愛は今はまだ、彼女の本当の名前を半分だけ呼んだ。でもいつか、映画と作品と社会をめぐる長い戦いのあとで、『千と千尋』の美しい結末のように、誰もが自分の本当の名前を名乗り、自分が本当は何者であったのかを静かに語り始める日が来る。橋本愛とのん、能年玲奈が久々に共演する新作映画は、その未来を照らしているように思えた。 

この記事の写真(6枚)

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー