兄具榮は勤務先の宮内省帝室林野局に出勤。母の櫻子は西郷隆盛の弟従道の娘で「絶世の美女」だったといわれるが、次女の嫁ぎ先に行っていて留守だった。靖子は落ち着いていて、着替えを済ませて渋谷署に連行されたという。
報知の特ダネだったようだが、他紙はすぐには後追いしなかった。検挙から時間がたっていため、時期を見てということだったのか、あるいは当局から規制がかかったのか。
次に報じたのは6月19日付の萬朝報(1940年廃刊)朝刊。それも「名門の子弟等 ぞくぞくと転向 岩倉公令妹を始め」という社会面2段の記事だった。
「転向の時代」だった1930年代
この間の6月10日の新聞各紙には、4年前の「四・一六事件」で逮捕された元・日本共産党委員長・佐野学と元委員・鍋山貞親の「転向声明」がセンセーショナルに報じられた。
声明は「モスクワのコミンテルンの指令が各国の労働者の生活と闘争の実態から懸け離れている」として「民族的一国社会主義」を主張。中国大陸での侵略戦争を肯定し、戦争への積極的参加が進歩的行動だとしたうえ、天皇制は民族的統一を表現するものとして支持した。
「『過去は誤てり』獄中の佐野と鍋山 共産思想を清算」が東京日日=東日(現毎日)の見出し。当時、共産党は戦争に対する唯一の積極的抵抗勢力とされ、その「両巨頭」(東京朝日=東朝見出し)の思想放棄が社会に与えた衝撃は大きかった。
前後して田中清玄、三田村四郎、風間丈吉ら共産党幹部も次々転向を表明。思想の科学研究会編「共同研究 転向」所収の高畠通敏「一国社会主義者」によれば、当時の司法省行刑局が佐野、鍋山の転向声明を全国刑務所に謄写配布した結果、「約1カ月のうちに未決囚の30%(1370人中415人)、既決囚の34%(393人中133人)が転向を上申した」。
特高(特別高等警察)などの脅迫や拷問を受けて強制的に、あるいは自発的に思想を捨てるなど、形態はさまざま。1930年代は「転向の時代」と呼ばれた。
「懇切な訓戒によって過去の非を痛感」
萬朝報の記事もそうした一連の転向に関するものだった。
「さる3月31日、警視庁特高課に検挙された上目黒123、男爵・上村従義氏の長男、成城高等学校高等科3年在学の邦之丞君(20)は、爾来錦町署に留置され、野中警部補の取り調べを受けていたが、山本権兵衛伯の四女に当たる母堂ナミ子夫人(47)は愛息の検挙を悲しんで錦町署に日参して、涙をもって転向を迫ったのと、取り調べに当たって野中警部補も懇々その不心得を諭したので、このほどようやく過去の生活の過誤を清算して転向を誓ったので、18日午後、野中警部補は母堂ナミ子夫人を呼び出して一応訓戒を与えた後、身柄を喜びの涙に泣きぬれている母堂に引き渡した」。
上村従義は西郷従道の三男、靖子の母櫻子の弟で、日露戦争の日本海海戦で活躍した上村彦之丞の養子。つまり邦之丞は靖子のいとこになる。記事は次いで靖子について書いている。
「また渋谷区鉢山町、公爵・岩倉具榮氏令妹靖子(22)も、さる4月中旬、警視庁特高課員に検挙され、同じく野中警部補の取り調べを受けていたが、同警部補の懇切な訓戒によって過去の非を痛感した彼女は数日前転向を誓ったので、近日中に釈放されることになった」