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 東朝は「上層階級の戦慄 八條、森、岩倉靖子起訴収容 両学習院の大檢擧」、東日は「フランス革命に倣ふ(ならう) 華族子弟の赤色陣営 中に岩倉公爵家に育った女性」、読売も「華族の子弟廿餘(余)名 黨資金網に躍る 特権階級に大衝動!」の見出しをとって「赤化華族グループ」について報じた。

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 最も詳しい報知は「学習院組が企てた 華冑界の赤化 七名は轉(転)向で釋(釈)放」の見出しで次のような記事だ。

華冑界子弟の赤化事件として屢報(たびたび報じている)の学習院出身者による赤色陣営検挙事件は、警視庁特高課において本年1月より9月末まで実に9カ月の長時日を要し、中川、野中両警部が取り調べていたが、学習院出身者20余名のうち、華族の子弟は実に10名に及び、うち子爵・八條隆正氏次男、八條隆孟(29)は4月10日、東京市会議長、子爵・森俊成氏長男、森俊守(25)は5月15日、公爵・岩倉具榮氏令妹・岩倉靖子(23)は7月8日、それぞれ起訴収容され、9月末、男爵・中溝三郎を検挙し、一段落をみた。昨年春、党家屋資金局のブルジョア班に属し、10月共産党大検挙まで、上層子弟間に「革命近きにあり、プロレタリアと貴族は固き握手のもとに共産革命を断行するのだ」と煽動し、学習院出身者を会員とする社交団体「目白会」に働きかけ、八條隆孟、森昌也(故森中将令息)の両名が責任者となり、また岩倉靖子は文学研究の社交機関「さつき(五月)会」の責任者となって働きかけ、村上男爵令嬢で元大審院長・横田秀雄氏令息、雄俊氏に嫁した春子(23)らとともに女子学習院出身者間にメンバーを獲得していた。

転向を誓って釈放される

「村上男爵」は上村(従義)男爵の誤り。つまり、上村春子(結婚して横田春子)は上村邦之丞の姉で靖子とはいとこになる。靖子に思想的な影響を与えた女性だが、「公爵家の娘」によれば、この年の2月に既に死亡していた。

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 記事はこの後、靖子ら検挙された華族の子弟10人の名前を列挙。「いずれも転向を誓ったので森(俊守)、八條(隆孟)、岩倉(靖子)を除く7名は全部釈放された。子弟の赤化事件で恐懼(非常に恐れ入る)した森子爵、八條子爵の両氏はいずれも貴族院議員の公職を辞職した」と記述する。

「死をえらんだ公爵家の娘」によれば、靖子は幼稚園から女子学習院に通っていたが、1927年に日本女子大付属高等女学校に転校する。本人や母の希望だったようだが、当時華族の子弟は学習院に通うのが常識だったから、転校は異例だった。そして1930年、日本女子大英文科に進学。そのころ学生の間にはある動きが広がっていた。

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 文部省思想局が1934年に出した「思想調査資料」によれば、大正デモクラシーの風潮に加えて、ロシア革命の影響や国内の物価高騰、労働争議の頻発などから「学生間にも社会問題の研究熱勃興し、大正7(1918)年12月、東京帝大に新人会が組織され、吉野作造博士を中心として大いにデモクラシー思想を鼓吹した。続いて早稲田大学はじめ各大学、専門学校及び高等学校(旧制)に社会科学研究会が組織せられ、大正11(1922)年11月、ついにこれら学校研究会は学生連合会という全国的統一組織を持つに至った」。

 同連合会はその後「全日本学生社会科学連合会」となる。女子大でも動きが起きる。「大正15(1926)年1月、日本女子大、東京女子大の学生有志が会合して婦人革命家ローザ(・ルクセンブルク)記念研究会を開催したが、このころよりようやく女子学生相互間の連絡がつき、その団体的行動が起こされるようになった」(同書)。

 同年12月、両大学を中心に7校の学生が会合。翌1927年3月の「女子学生社会科学連合」結成に発展する。そうした動きの渦中に靖子は飛び込んだ。