「この手は意外でも何でもないです」
筆者が観戦したある対局にて、その対局者がくれた一文である。これは観戦記にも引用させてもらったが、実はその「意外でも何でもない手」が世間を大騒ぎさせていた。当事者と周辺の空気の差というのはたやすいが、それだけではないものがどこかにあった。
指し手の一つ一つに見る者を魅了させる力がある
2020年の将棋界は、藤井聡太を抜きには語れないだろう。第一人者の渡辺明から棋聖を奪取し、タイトル獲得の最年少記録を更新。続いて王位戦で木村一基を破り、二冠となった。
藤井がこれだけ注目を集めるのは年少だからというだけではない。指し手の一つ一つに見る者を魅了させる力がある。これは藤井の対戦相手になり得るそれぞれのプロ棋士も認めるところだ。
もっとも、プロの将棋の内容を詳しく知るには相当な棋力が必要となる。ライトな層からわかりにくいと思われるのが、将棋の普及を妨げる大きな要因であると長年考えられていた。棋士をはじめとする普及に携わる人々にとっては、いかにわかりやすく伝えるか、というのが長年のテーマだった。
その悩みを解決する一つの手段が将棋ソフトの存在である。開発者の方々の長年の努力の結果、最新鋭のソフトはプロ棋士の力を凌駕するまでに至っている。その将棋ソフトが示す「評価値」は、単純な数字のプラスマイナスであるため、ある局面を切り取ってどちらが有利か不利かという形勢判断が、初心者にとってもわかりやすくなった。
指しにくい順をソフトが最善と示した
筆者は藤井が王位を奪取した一局(第61期王位戦七番勝負第4局)を間近で観戦する幸運に恵まれた。当然ながらその対局も動画中継されており、プロ棋士の解説とともに将棋ソフトの示す最善手が表示されていた。
この対局でもっとも注目を集めたのが、藤井の封じ手である。図がその局面で、後手は飛車を逃げるのが普通に見えるし、実際△2六飛でも後手がすぐに悪くなるようには見えない。だが、翌日に開封された藤井の着手は△8七同飛成だった。前日から将棋ソフトが最善と示していた一着である。
この手は盤上最強の駒である飛車と銀を刺し違える着手であるため、通常は指しにくいと思われた。その指しにくい順をソフトが最善と示し、かつ藤井が指したことで、△8七同飛成はあっという間に「伝説の妙手か!?」と騒がれだした。
妙手について辞書を紐解くと「他人には予想もできないうまい手」とある。ただ将棋ソフトの存在により、このような手はなかなか生まれにくくなった。指される前からソフトが示すことで「他人には予想もできない」ということはなくなっているし、またソフトがまったく候補にも挙げなかった手が指されることはあっても、その着手によって評価値が急激に上がることはまずありえないからである。すなわち「うまい手」でもないのだ。