1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 サリンを撒いた実行犯たちに死刑判決が下される中、いわば「現場指揮者」だった井上嘉浩にだけは、無期懲役が言い渡された。

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)

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無期懲役の“イヤな奴”

 たとえ、どんなに礼儀正しく、反省・悔悟の情が十分であったとしても、地下鉄にサリンを撒いた犯人たちは、死刑だった。「自首」という特別の事情が働かなければ、林郁夫だって死刑だっただろう。3路線5方面のうち、丸ノ内線池袋方面往きを担当した横山真人も、やはり死刑だった。(横山の特別な事情については、あとで触れたい。)

 そんな中で、彼らに指示を与えていたとされる、いわば「現場指揮者」だった井上嘉浩にだけは、無期懲役が言い渡された。それこそ、井上は地下鉄にサリンが撒かれることが最初に話し合われた「リムジン謀議」と呼ばれる事件2日前の麻原のリムジン車内にいた人物だった。そこで井上は、麻原とも直接会話をしている。

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 それから犯行までに、廣瀬や横山に地下鉄各駅の詳細図を提供し、林泰男らと連絡を取り合いながら、出撃アジトとなった渋谷のマンションを準備し、実行役と運転手のペアを伝えるなど、具体的な麻原の指示を伝えていた。犯行後は、渋谷アジトで実行グループの帰還を待っていた。

 いわば事件に積極的に関わっていった人物だった。

 なのに、彼は無期懲役だった。

 なぜか──。

 法廷で見た井上を一言で言えば、“イヤな奴”だった。

 それこそ、裁判のはじまった最初のうちは、16歳の高校生の頃から師事していた麻原彰晃を本名で呼んで「松本智津夫氏と対決する!」と息巻き、訣別と糾弾の姿勢を鮮明にしていた。その法廷での態度や姿勢も、当時の20代前半の痩身の容姿と相俟って、まるで映画の中で観た青年将校のようだったし、その証言の仕方も、『NHK青年の主張』のようにテキパキとした口調で熱弁を振るうものだった。