将棋ファンに、長らく将棋界の顔として君臨し続けた人物を問えば、真っ先に羽生善治九段の名前が挙がるだろう。しかし現在の将棋界を象徴する人物となると、話は少々変わってくる。藤井聡太七段の活躍を無視するわけにはいかないからだ。果たして将棋界において「一つの時代」は終わってしまったのだろうか。
ここでは、将棋観戦記者の大川慎太郎氏が、天才の呼び名をほしいままにしていた羽生善治九段と同世代でしのぎを削り合った「羽生世代」にまつわる棋士へ行ったインタビューをまとめた『証言 羽生世代 』を引用。小学4年生時から羽生善治九段と将棋を指し合い続け、現在は第一線を退いた森内俊之九段の思いを紹介する。(全2回の1回目/前編を読む)
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子ども大会で圧倒的だった二人
名人。
すべての棋士が憧れ、強く希求する地位である。
将棋界最高の棋戦は賞金額から言っても竜王戦だが、歴史と伝統という意味においては、80年以上を誇る名人戦にはかなわない。
その名人戦という大舞台で、羽生と9回も死闘を繰り広げたのが森内俊之である。森内は羽生と同学年で、奨励会入会も同期だ。羽生とはじめて盤を挟んだのは「小学4年生の正月に行われた大会」というのだから、少年時代から文字通り切磋琢磨してきた間柄である。
特筆すべきは、森内は羽生に名人戦七番勝負で5勝4敗と勝ち越していることだ。通算成績では負け越しているが、名人戦においては羽生を上回っている。
また森内は羽生より先に永世名人の資格を得た。過去に19人しか存在せず、実力制になったのちの1949年には名人位を通算5期獲得すると得られるようになったが、それでも6人しかいない。森内は十八世名人(2007年)で、羽生は十九世名人(2008年)。森内が挙げた実績がいかに際立っているか、おわかりいただけるだろう。
将棋界初の同学年の永世名人
この二人の関係性は、羽生世代を象徴していると思う。将棋界400年の歴史上で、同学年の永世名人が存在することなど、ありえなかったのだから。
島朗に伝説の研究会である「島研(編集部注:島朗・羽生善治・佐藤康光・森内俊之が参加していた将棋研究会。当時、研究は一人で行うものという考えが一般的だった)」について尋ねた際に、「詳しいことは森内さんに聞いてください。彼の記憶力は抜群ですから」と言われたが、森内はもう40年も前になる羽生との初対局についても鮮明に覚えており、対局日までスラスラ出てきたのには仰天した。
「羽生さんとの初対局は、小学4年生の正月。新宿にある小田急デパートの将棋大会で、1月4日に行われた予選の2回戦でした。その前の1回戦で、私は羽生さんの隣で対局しました。彼は私の友人と指したのですが、友人は当時アマ二段で初段の私よりも強かった。でも羽生さんは順当勝ちをしたんです。羽生さんの手合い表を見たら『四』という数字が見えたので四級かなと思ったら、四段だったんですね」
この先もずっと争い合うことになる二人は10歳で出会った
初戦を突破した羽生と森内は2回戦で対戦した。この先もずっと争うことになるとは、10歳の二人は想像もしなかっただろう。結果は森内の逆転勝ち。だが「棋力的には羽生さんのほうがはっきり上だと思いました」と振り返る。両者とも当然のように予選を突破し、1月7日の本戦準決勝で再戦。今度は羽生がリベンジに成功した。その勢いのまま優勝し、森内は3位に収まった。
それから両者はよく大会で顔を合わせるようになった。「子どもなので、話をするよりも対局をすることで仲良くなっていきました。同世代で彼ほどレベルの高い人はほかにいなかったので、すごくいい出会いでしたね」と森内はうれしそうに言う。
当時の羽生はどういう将棋だったのか。
「センスのよさはいまと変わりません。羽生さんは基本的に『負けたくない人』なので、そこも当時から変わらないです。子どもの頃はそれが前面に出ていて、どんなに形勢が悪くなっても諦めずに指すところがすごく印象的でした」