知る人ぞ知る大阪市西成区の歓楽街「飛田新地」も2020年コロナ禍に見舞われた。

 飛田新地料理組合では4月から6月まで加盟店約160店を休業。2019年のG20大阪サミットの時期にも営業を自粛したが、長期休業は異例だ。現在ではコロナ対策をとりながら営業を再開しているが、コロナ以前の状況とは変わってしまったことも多いだろう。

 色街・飛田新地は秘密のベールに包まれた街ゆえにその窮状が大きく報じられることはないが、そこには懸命に生きる人々が確かに存在している。

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 ノンフィクションライターの井上理津子氏は12年に渡ってこの街を取材し、2011年に上梓した名著「さいごの色街 飛田」(筑摩書房、現在は新潮文庫に収録)で彼らの姿を活写している。その一部を抜粋し、転載する(転載にあたり一部編集しています。年齢・肩書等は取材当時のまま)。(全4回の2回目。#1#3#4を読む)

料亭の正面。光のなかに女性が座っている 撮影/黒住周作

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「若いころ、飛田に相当ハマッた」

 飛田での体験を語ってくれたのは広告写真が専門のフリーカメラマン、Dさん(38歳)だ。仲のよい友人の紹介だったためか、「いいっすよ、昔のことでよかったら、何でも教えますよ」と、電話の向こうの声はいたって気さく。かなりの売れっ子らしく、ヒアリングの日時を調整できたのは、申し込んだ3週間後。沖縄の撮影から帰ってきたという日曜の夕刻、梅田のカフェで会った。「若いころ、飛田に相当ハマッた」と言う彼の話は、衝撃だった。

 22歳から25歳くらいまでだったので、もう10年以上前ですが、僕は3年ほどほぼ毎週飛田に通ってました。

 当時、今で言うフリーターのような感じで、バイト先の酒屋から毎週土曜日に週払いの給料を確か3万円ほどもらうと、それを握りしめてその足で行ってたんです。親元に住んでいたので経済的には気楽だった。最初は、中学の同級生に誘われて。冷やかし気分で行ったんですが、若いし、彼女もいなかったし、もう止められなくなった。1人で行ったり、友達と一緒に行ったり。

 そのころの飛田は、今と違って、土曜の夕方に道路を歩くと、他のお客さんと肩が触れるほど賑わっていたんです。僕みたいに若い者もいたし、作業員風のおっさんとかも多かった。「にいちゃん、寄っていきや~」とやり手ばあさんは腕をつかむわ、離さへんわで熱気ムンムン。確か、PECC(太平洋経済協力会議)が開かれた時から、飛田の自主規制でやり手ばあさんが玄関の敷居から外に出て客引きするのをやめたのだけど、当時はもうやりたい放題だった。