井上を子どもであるとするなら、彼らはずっと大人だった。彼らの罪の大きさは言うに及ばずとも、真摯に向き合う覚悟はできていたように思う。そこに「無期という生を与える選択」はあり得なかったのだろうか。
実行役を牽引するのが現場指揮者というのであれば、背後からの強靭な力で前面に押し出す後方支援の強かさは、どう評価されるべきなのか。強固なあと押しがなければ、東京を舞台にした無差別同時多発テロは完遂しなかったはずだった。実行犯だって、存在しなかったかも知れない。
果たして、井上は真摯に反省しているのだろうか。裁判所がいう「生を与える選択」とは、ようやく何かに気付いた子どもに、その猶予を与えるということのように聴こえた。だとしたら、本当に裁かれるのはこれからということになる。それでいいのだろうか。人格優秀と讃えられた実行役は、「師を誤った不幸」を背負っていかねばならないというのに。
ぼくには、わからなかった。
それでも井上は、さっきまで膝から崩れ落ちそうになった錯乱はどこへやら、裁判長の「わかりましたか」の一言に、「はい」と返事をして、「ありがとうございました」と深々と頭を下げてみせた。
原判決の破棄
ところがこのあと、井上にはもっと悲惨な現実が待っていた。
無期懲役の判決を不服として検察が控訴した東京高等裁判所の判決で、井上は死刑になってしまうのだった。
控訴審判決では、原判決の事実認定に大きな誤りがあるとされた。すなわち、被告人はリムジン車内でも積極的に発言を行い、事件全体に積極的に関わっていったもので、その役割は後方支援、兵站役に留まるものではない、とするものだった。
「よって、原判決を破棄し、被告人を死刑に処する」