1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 サリンを撒いた実行犯たちに死刑判決が下される中、いわば「現場指揮者」だった井上嘉浩にだけは、無期懲役が言い渡された。

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)

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少年のままの精神状態

 さすがにこのあと、検察から死刑を求刑された時には、井上も現実に目覚めないわけにはいかなかった。捜査協力をしてきた検察はわかっていてくれる、あるいは、麻原を追い詰める同志、あるいは味方とでも勘違いしていたのだろう。裏切られた、自分は利用されただけだったのか、とでも言いたそうな、これまでになく蒼白で神妙な顔付きだった。

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 一方、こうした裁判から浮き上がってきた井上の稚拙さを、巧みに取り上げたのが弁護側だった。井上の犯した罪は「本質的に少年犯罪である」と主張したのだ。16歳でオウムを知り、高校卒業と同時に出家した井上は、社会を知らなかった。閉鎖的な価値観と環境の中で、20歳を超えた大人であれば当然身につけたであろう社会的経験や人格形成を欠いた。麻原一辺倒の世界観の中で発達が阻害された、16歳の少年の精神状態にある。それが、この一連の裁判によって証明されている。反省をしたくても、それが遺族に伝わらない現実に、いまはじめて大人への一歩を踏み出したものだ、と主張するのだった。

 要するに、この男は子どもなのだ。独り善がりの正義感を振りかざして、ヒーローになったつもりが、無差別に人を殺した。それでいて、責任の取り方を知らなかった。誰も教えてはくれなかった。そのことをはじめて知る機会に巡り会った──弁護人がいうその時に判決が待ち構えていた。