1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 サリンを撒いた実行犯たちに死刑判決が下される中、化学兵器サリンの生成者である土谷正実は「黙秘」の姿勢をとり続けていた。検察は何も語らない土谷に対して、事件の遺族を証人として呼び寄せ、遺族感情を聞かせていった。
その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)
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死刑を求める遺族
本村洋さん──。山口県光市母子殺害事件の遺族で、犯行当時18歳の少年だった被告人に、極刑を求め続けた被害者の夫であり、父親。一審、二審で無期懲役判決が下っては、これで死刑でないのはおかしいと声をあげ、会見に臨むその毅然とした姿と、理路整然とした口調は、テレビ画面を通じて日本中の多くの人の共感を呼んだ。最高裁判所が審理のやり直しを命じたのも、本村さんの声が世論を動かしたからではないか、との憶測を呼ぶくらいだった。
「無期懲役なら、早く彼を社会に出してくれ。その上で私が彼を殺す」
「この判決のどこに法の正義、司法の正義があるというのでしょうか」
遺族がメディアに登場して、あそこまで遺族感情を露にし、判決を批判し、そしてあくまで死刑を追求してやまなかったことも、過去に例はなかった。もっとも、事件の犯行態様の凄惨さもあり、本村さん自身のキャラクターもあって、マスコミが持ち上げたところも、なきにしもあらずだが、それにしてもその期待に応えるだけの遺族の存在を知らしめたことは、強烈な印象をもって受け入れられた。そこにまた、最高裁の弁論から就いた弁護人が、混乱を招くばかりの顰蹙を買うような法廷戦術をとったものだから、遺族の本村さんが、より正義の代弁者のようにはえて映ったことも、否めなかった。
確かに、遺族としての本村さんが言うことに間違いはなかった。間違いはなかったと言うよりも、それが遺族としての本音であり、そこに嘘がなかった、と言ったほうが正確かもしれない。そこに共感が集中し、厳正な法手続きとしての死刑を求める世論も大きくなっていた。
しかし、家族を殺された遺族がみんな、加害者への死刑を望んでいるものだろうか。
あるいは、死刑を求めるのだとしても、本当に自分の言葉として、被告人に向かって声に出して言えるものだろうか。
ぼくがこれまでに見てきた死刑判決者。彼らに向かって、遺族はいろんな悲痛な叫びを浴びせてきた。筆舌に尽し難い感情の発露は、法廷を圧迫してあまりあるものばかりだった。
それでも、その中には、被告人への死刑を望まない、と語った遺族だっていたのだ。
死刑を求める遺族の苦悩と悲しみ。死刑判決者といっしょにあるその人たちの姿──。