母親の心身の変調
それから母親は、心身に変調を来たす。その典型が、買物をしても支払いができなくなることだった。1000円も500円もわからなくなった。
「スーパーへ行っても、支払いができずに、店の人に『すみません、取ってください』とお願いしていました」
医師からは自律神経失調症と診断され、仕事も1カ月半休んだという。
そんな遺族の話を、土谷は目を閉じて聞いていた。どこか神妙な面持ちだった。
そこへ検察官が尋ねる。被告人への処罰感情だった。
「この人が薬を作ったんです。この人が作ったということは殺人です。うちの娘が、何をしたと言うんでしょうか」
どこか落ち着いた言葉だった。
ところが、直後に検察官が、あなたにとって被害者はどのような存在でしたか、と聞かれた時、「たった一人の娘です」と母親が答えてから、事態が急変する。あとを継ぐように、最後に被告人に言っておきたいことはありますか、と検察官が尋ねた直後に、証言台で正面を向いていた母親は、キッ、と右を向いて、涙に溢れた目で被告人席に座る土谷を睨んだ。そして、伝わらないもどかしさをぶちまけるように、あらん限りの声を張り上げていった。
「目を瞑ってないで、私を見てください! 娘を亡くした母の顔は、こういう顔をしています! あなたが死刑になることを望んでいます。娘を返してください──」
あとは声にならなかった。
土谷はその瞬間、ハッと目を見開き、母親を見た。そうするしかなかった。
そのまま、検察側の主尋問が終了すると、泣き崩れた母親を見たままの土谷に向かって、弁護人が後ろから肩を突ついた。すると、土谷は振り返って、大きく首を振った。
裁判長から反対尋問を促された弁護人は、立ち上がるなり、たった一言、
「ございません」
と、だけ答えた。