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「死刑という生を奪われる選択」

 東京高裁による自判だった。

 そう宣告された時の井上は、証言台の前に立ち尽くしたままだった。現実を受け入れられるだけ大人になったのか、あるいは急転直下の出来事に茫然自失としていたのか。

 一度は「無期という生を与える選択」がとられ、崩れ落ちそうになるほどの歓喜を見た男が、今度は「死刑という生を奪われる選択」をされる。どちらも同じ司法の為す業だった。

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 残酷だった。

 あの時の裁判所が認めてくれた酬いはどこへいってしまったのか。およそ師を誤るほどの不幸はないように、事実を見誤られる不幸も、またなかった。

 もっとも、そうした例でいうならば、光市母子殺害事件の被告人も同じだった。

 そういえば、どちらも被告人の稚拙さが裁判の争点になるものだった。

 稚拙さを主張するからには、きっと彼らが大人になって、事件と真摯に向きあえるようになった時に、はじめて刑が執行されることになるのだろう。反省には、考える時間も要る。一審の井上判決が示したように、裁かれるのはそれからでも遅くはないのかも知れない。一旦は生かされたあとから、死刑の宣告を受けた者に、悔悛の余地なんて残されるものだろうか。運命の不幸を詛う。

 ただ、この東京高裁の判決に限って言えば、正直なところ、それがもっとも自然な結論のように思えてしまったのも、事実だった。

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青沼 陽一郎

文藝春秋

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