この映画は公開のタイミングとその内容があいまって、2011年の東日本大震災を想起させざるを得なかった。その人気は確実に、よく言えば震災の傷が癒えつつあった、悪く言えば(住む場所を失って避難生活を続けていた人びとがいたにもかかわらず)震災を忘却しつつあった社会の雰囲気を要因としていただろう。
『君の名は。』は「歴史の修正」の物語だが…
自然災害であるはずの震災が、そして福島の原発メルトダウンが浮き彫りにしたのは、常に存在してきた「田舎と都会」のあいだの被搾取・搾取関係だっただろう。東京の電力を生み出すために、住む場所が放射能に汚染されて失われた人びと。
『君の名は。』はそのような関係の抹消と忘却のための儀式だった。いわば「歴史の修正」が『君の名は。』の物語の本体であるわけだが、その修正によって想像的に消し去られたのはフィクションの中での災害だけではなく、当時まだ、そして今もなお日本社会に存在する現実の被災者だったし、被災者を生み出した「田舎と都会」の構造だった。
(もちろん、忘却は『君の名は。』の重要なモチーフだ。瀧と三葉がお互いを忘却しつつ、それでも記憶しているということだけではない。そのような「忘却の乗り越え」の裏では、「現在」の東京に暮らす瀧たちが、たった3年前の惨劇を忘却しているという不思議が取り残されている。)
『天気の子』では「東京=セカイ」が描かれる
では、『天気の子』(2019年)は災害を地方ではなく東京にもたらしたという意味で、そのような構造への反省であったと言えるだろうか。
この作品では、天気をコントロールする能力を持った天野陽菜という少女が、その力を濫用してしまった反動で消失してしまう。神津島から家出してきた主人公の少年森嶋帆高は、陽菜がその力を得た廃ビルの屋上の不思議な鳥居をくぐって、陽菜を救出する。その代償で東京ではその後2年半にわたって雨が降り続け、東京の多くの部分が水没してしまう。
確かに『天気の子』は東京に災害をもたらし、その危機の想像的な解消のための場として田舎を搾取するようなことはない。というより、それ以前に、この作品には東京の外部が存在しない(神津島は東京都である、という以上に、何らか意味のある「場」としての役割を果たしていない)。東京は「世界=セカイ」なのである。
この作品は、気候変動という「社会問題」を扱う身振りをしながらも、プロットの基本構造はいわゆる「セカイ系」への回帰である(これについては『現代ビジネス』掲載の拙論を参照。)東京を「セカイ」と見立てて、「きみとぼく」の物語を成立させるために、東京の外側への想像力がシャットダウンされていると言った方がいいだろう。