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 東京に降ったという雨は、それ以外の場所に降ったのか? 海面上昇は世界にも影響を及ぼしたのか? そのような疑問を完全に無効化したところに、「きみとぼく」の物語は成立している。その想像力は、グローバルな気候変動を問題にするような地理的想像力とは、実は正反対のものだ。だとすれば、『天気の子』は『君の名は。』への反省というよりは、『君の名は。』の問題に蓋をしたと言った方がいいだろう。 

細田守が描く「田舎による救済」 

 田舎と都会の構造をその想像力の重要なエンジンとしているもう一人のアニメ作家は細田守である。ここでは『サマーウォーズ』(2009年)と『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)を見てみよう。 

 細田作品について興味深いのは、「田舎と都会」という構造が、文字通りの田舎と都会ではなく、社会学用語ではゲマインシャフト(有機的な共同体)とゲゼルシャフト(近代的な疎外された社会)との対立という原理へと抽象化された上で別のものへと具体化されていることだ。 

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『サマーウォーズ』

 具体的には『サマーウォーズ』の「田舎と都会」は、長野の陣内家を中心とする親類コミュニティと、ネット上の仮想世界OZ(オズ)との対立へとずらされている。物語は、OZの暴走を田舎のコミュニティの協力が解決するというものであり、ここに見られる図式(疎外された都会の問題を田舎という理想的な場が解決する)は、細田監督作品で繰り返されるパターンである。 

 そのパターンがもっとも明確に表現されたのが『おおかみこどもの雨と雪』だろう。この作品の二つの「場」は東京都国立市と富山県中新川郡上市町である。「おおかみ人間」である「男」の子供を産んだ主人公の花は、「男」の死後、おおかみ人間である子供たちを育てることができなくなり、富山の山あいの古民家に移住し、そこで農業をしながら暮らしていく。ここでは一見、都会での苦難が田舎によって解決されているように見える。 

 だがこの作品は(詳しくは拙著『戦う姫、働く少女』で論じたが)、「おおかみ人間」のモチーフを取りのぞいてみた場合、配偶者が「過労死」してしまったシングルマザーが都会での福祉からこぼれおち、田舎で暮らしていく話になる。これが一体現実的なのかどうかは真剣に考えてもいいだろう。 

『おおかみこどもの雨と雪』


 そのように見た場合、この作品は貧困の問題やセーフティーネットの機能不全の問題を問う作品として評価することができる。だが、そのような問題は都会だけのものなのか? 田舎のゲマインシャフトは、機能不全を起こしたセーフティーネットの代替物になってくれるのか? それはあるまい。

 そのような現実と照らし合わせてみたときに、『おおかみこども』における田舎の機能は、かなり理想的=想像的だと言わざるを得ない。そしてなによりも、理想的な田舎(『おおかみこども』の田舎にコンフリクトがないわけではないが、プロットの解決の「場」としてはやはり理想的なのだ)の存在は、都会におけるセーフティーネットの不全という新自由主義的な問題を不問に付して隠蔽してしまう。

 その結果、つきつめてみればこの作品は上記のような「社会問題」を社会問題として扱うことを回避している。その回避にあたって「理想的な解決の場としての田舎」の機能が不可欠なのであり、その限りで田舎は「利用」されているといえる。