高畑勲による田舎の搾取への「批判」
ここまで見てきた「田舎と都会」の構造は、高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』(1991年)が、前もって批判していた。主人公は27歳のOL岡島タエ子。東京生まれの彼女は小学生の頃から、帰省する田舎の存在に憧れを感じて、それが高じて現在は休暇を取って山形の姉の夫の親類の農家に行き、ベニバナ収穫の農業手伝いをする。田舎の美しい風景を理想化するタエ子は、その幻想を批判されていく。
印象的なのは、姉の配偶者の又従兄弟にあたるトシオが、田舎の「自然」の風景を賞賛するタエ子に対して、その風景は手つかずのものではなく、ここで農業を行ってきた人間たちの働きかけで出来上がっていると指摘する場面だ。
ここには、宮崎駿の『となりのトトロ』(1988年)が「里山」を理想化し、それへのノスタルジーを喚起してしまったことへの批判があったかもしれない(「里山」のイデオロギーと実践、そしてその表象に関しては小野俊太郎『「里山」を宮崎駿で読み直す』(春秋社)を参照)。
そしてタエ子は、トシオと結婚してこの田舎での労働の生活に入る覚悟があるかどうかの選択肢に直面することになる。彼女はそれによって、自分が田舎の生活がどんなものであるかを理解していなかったと気づき、動揺する。
もちろん私は、たとえば『おおかみこども』のような作品が、高畑の批判的な視点に対して完全に無意識だとは思わない。実際『おおかみこども』では、田舎で農業をして暮らそうとする花の「甘さ」が一通り強調されてはいる。
だがそこでの力点は前節で見たとおり、現実の田舎での苦難への対峙ではなく、物語の矛盾を解決する機能的な「場」としての田舎に収斂していく。その意味で『おもひでぽろぽろ』と『おおかみこども』は似たようなモチーフを持ちながらも、正反対の構造を持っている。
しかしそれでは、高畑が批判的に描く「田舎と都会」の構造を離れたところで、いかにして地方や田舎を物語創造のためのモチーフにしうるのだろうか。
片渕須直の「田舎」の描写が一線を画す理由
地方を重要な「場」としつつ、ここまで見たのとは異質な作品創造をしてきたアニメ作家は、片渕須直である。とりわけその『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)、そして『この世界の片隅に』(2016年)にその傾向があらわれている。
この二つの作品はいずれも地方(前者は山口県防府市、後者は広島県広島市と呉市)を舞台とする。そして、片渕作品において重要なのは、それらの地方が「内的な差異」をともなって描かれているということだ。