綾瀬女子高生コンクリ殺人事件、名古屋アベックリンチ殺人事件、木曽川リンチ殺人事件……。1980年代後半から90年代前半には、歳を重ねた状態で不良「デビュー」した、ブレーキの踏み方を知らない人間による、卑劣で残虐な事件が目立った。しかし、その潮流は時代とともに変わり、2000年代以降は暴力の世界とは縁のなさそうな人たちによる事件が目立つようになってきたという。
ここでは、編集者の久田将義氏による著書『生身の暴力論』を引用。「人を殺したかった」という不可解な動機の殺人事件が2000年代以降頓に増えた理由を考える。(全2回の1回目/後編 を読む)
◇◇◇
「ネットの国」の殺人者たち
ここからは近年の「動機不明な事件」を見てみよう。これらは暴力の究極であるところの殺人であるものの、フェーズが全く異なる。「デビュー」とも関係がない人間が犯した事件だ。
2015年8月、北海道で19歳の少年が「人を殺してみたかった」という動機で同じアパートに住む女性を殺害。
2014年12月に愛知県名古屋市で19歳の女子大生が「人を殺したかった」という理由で女性を殺害している。
2014年7月には長崎県佐世保市で女子高生が同級生を殺害。動機は同じく「殺してみたかった」であった。
それから遡ること14年前の2000年5月1日、愛知県豊川市で「人を殺してみたかった」という理由で、17歳の少年が主婦を殺害した。
2日後、この犯人と同じく17歳の少年が2ch上で「ネオ麦茶」と名乗り犯行を予告して「西鉄バスジャック事件」を起こし、女性を殺害した。2chの隆盛は皮肉にもこの「ネオ麦茶事件」から始まった、という見方をしている人もおり、僕も一部同意するものである。
「人を殺してみたかった」というフレーズは、この時期からたちまちメディア、ネットを通して蔓延する。なぜ、そういった摩訶不思議な動機で人を殺してしまうのかが論議された。
これら動機不明な事件の通底には、1997年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」、別名「酒鬼薔薇聖斗事件」が存在する。共通するのは、犠牲者が全員、加害者より力の弱い女性か児童であるということだ。
体力的に弱い者に自分勝手な怒りをぶつけていった。卑劣、卑怯である。卑劣、卑怯な人間にはなりたくない。誰もがそう思うのだが、実際に酒鬼薔薇聖斗のような前例があると、それがエクスキューズにも後押しにもなり犯行に走る。2015年6月に「酒鬼薔薇聖斗」は「元少年A」の名で手記『絶歌』を出版し、物議をかもしたが、同書がさらなるエクスキューズにならないことを祈るばかりだ。
現実社会で行き場のない彼らの安息の地
自分たちの中で小さな「コミュニティ」を勝手に作り、その場所こそが彼にとっての「国」になってしまう。彼らにとって安息の地だ。現実社会では受け入れられていなかった彼らは、もう一つの社会=国を作り出す事によって安心・充実を覚える。その手段がインターネットでありSNSである。
「国」の中ではどのような言葉を吐いても良いし、どのような事を実行しても良い。それが脳内で成立させた幻の国であっても。国民は皆、同じような考えを持つ者たちで構成されている。その国民とは、「人を殺してみたかった」とのたまう人間たちだ。
19歳の女子大生と17歳の「ネオ麦茶」には共通項があり、それは「インターネット」である。ネオ麦茶は2chに、19歳の女子大生はツイッターに書き込みをしている。SNSの発達に関しては僕は歓迎だが、主観として言わせてもらうと小中学生に関しては規制とまではいかないが、パソコン・スマホを取り上げろ、と言いたいくらいである。それが言い過ぎであるならば、ある程度、分別がついた歳で初めて与えて欲しい。あるいは、使用時間で区切るとかでも良い、がやはり、警察がネットの知識をより深め、迅速に対応する事が重要だ。現在の警察行政はネット事情に非常に疎いように感じられる。