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大規模経営で池田家の打撃も大きかった

 池田の家業は海苔製造業だ。1923(大正12)年9月1日の関東大震災以前は大規模な経営をしていたようだ。

 池田の家の海苔業は繁盛し、東京湾で大規模に魚をとる分野にも手を伸ばしていった。広島から何十人と漁師を採用し、二隻の動力船で網を引っ張り、大量に魚を捕獲する漁法を工夫していたとのこと。さらに、明治の祖父の代から始まっていた北海道の釧路付近の開拓事業も大規模にやっていた。私の父も、北海道には、よく行っていた。

 しかし、このようなかなり大規模な事業も、関東大震災を機に、決定的な打撃をこうむり、また、魚をとるほうもうまくいかず、困難な事態になっていった。『東京府大正震災誌』(東京府編、大正十四年刊)によれば「海岸及海底は約二尺(注・約60センチメートル)沈下し準備中のひびにては短かくひび建頗る困難を感じつゝあり」「悪潮の為め沿岸魚貝概ね斃死したり」と、不入斗、羽田、糀谷、大森などの海岸地帯がほとんど崩壊し、海苔漁業者にも甚大な被害を与えたことがわかる。大規模にやっていればいるほど、その被害状況も、立ち上がり不可能なほどになっていったにちがいない(194ページ)

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 人間には、自らの力では防げない災厄に遭遇することがある。地震がその典型だ。関東大震災がなかったならば、事業に成功した子之吉は資本家になっていたかもしれない。子之吉の事業が零細だったならば、震災前と後での経済状況が大きく変化することはなかったであろう。大規模な事業を展開していたが故に池田家の打撃も大きかったのである。

池田大作が生まれた頃の社会情勢

 大作が生まれた1928年の国内外の情勢を見てみよう。

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 2月20日に初めての男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が行われた。それまでの衆議院議員選挙は一定の納税額以上の者にしか選挙権と被選挙権が認められなかった。それが日本国籍を有する内地(植民地以外の日本)に居住する男子に関して25歳以上が選挙権、30歳以上が被選挙権を持つようになった。女性や朝鮮、台湾などの植民地に居住する日本国籍保持者には選挙権と被選挙権が認められないという、今日の人権基準から見れば不十分なものであったが、男子普通選挙の実施は日本の民主政治の発展にとって画期的な出来事であった。

 普通選挙法は1925年5月5日に公布された。その直前の4月22日に治安維持法が公布された。1917年11月にロシアで史上初の社会主義革命が成立した。1919年にはモスクワに本部を置く共産主義インターナショナル(第3インターナショナル、国際共産党と呼ばれることもある)が設置され、ロシアのボリシェビキ(ソ連共産党の前身)政権は、世界的規模で共産主義革命を起こそうとした。

 1922年7月15日には、非合法(治安警察法違反)に日本共産党が創設された。戦前の日本共産党は、国際共産党日本支部とも称していた。治安維持法は日本での共産主義運動を封じ込めるために制定された法律だったが、後に拡大適用され、合法マルクス主義(社会民主主義)政党、労働組合、宗教団体にも拡大される。創価学会の前身である創価教育学会も治安維持法違反に問われることになるが、この経緯については今後、言及することにする。

 大作が生まれた直後の1928年3月15日には、全国で共産党員が一斉検挙された(3・15事件)。