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 昭和9年に羽田の第二尋常小学校へ入学した。1年生の国語の冒頭の句は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であった。この章句は懐かしい。糀谷三丁目の屋敷は広く、カエデやケヤキなどとともに、1本の桜の木があった。(中略)

 入学したころ、私はご多分にもれず腕白であった。背は低くクラスでも前から数えたほうが早かったけれど、遊ぶときは負けていなかった。成績は中位であり、いたって平凡な少年であった。特徴らしいものはなにもなかった(197ページ)

平穏な生活が一変

 池田は「特徴らしいものはなにもなかった」と回想するが、それは特段、苦労することもなく平穏に学童生活を送っていたからだ。その状況が1年後に激変した。

 このころまでさしたる不自由もない少年時代を送ってきたのであったが、2年生の時に父がリューマチで病床に臥し、寝たきりとなった。海苔製造業で一番の男手を失うことは致命的である。縮小せざるをえなくなり、使用していた人もやめていった。

 援助を頑として拒む父と、育ち盛りの多くの子どものあいだで、母の苦労は並たいていではなかったと思う。「他人に迷惑をかけると、お前たちが大きくなってから頭があがらなくなるぞ。塩をなめても援助を受けるな!」と強情な父は口ぐせのように言った。理屈はそうでも、生活は窮しに窮した。母は努めて明るく「うちは貧乏の横綱だ」と言っていた(197ページ)

 当時は、社会福祉制度がほとんど整備されていなかった。家計を支える人が病気で倒れると、家族は貧窮状態に陥る。このような状況でも父の子之吉は、他人に頼ろうとしなかった。意地を張っていたからではない。大作ら子どもたちの将来を考えていたからだ。

 子之吉は、「お前たちが大きくなってから頭があがらなくなるぞ」と繰り返していたが、この言葉には真実がある。苦しいときに他人の世話になって、将来の自由を失うよりも、自助努力に頼るべきだというのは、当時の状況では真理だったのである。

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 創価学会に入会してから、池田はこのような構造自体を変革しなくてはならないと考える。だから池田の指導で創価学会は政治に進出し、福祉を充実させようとしたのだ。それが後の公明党創設につながっていく。

池田大作研究 世界宗教への道を追う

佐藤 優

朝日新聞出版

2020年10月30日 発売