2019年時点での信者は国内だけで827万世帯。公明党の支持母体としても活動する日本最大級の宗教法人として、創価学会の名は広く知られている。しかし、圧倒的な知名度の一方で、信仰の核心や信者たちの具体的な活動は意外に知られていないのではないだろうか。

 そんな創価学会の実態について、作家の佐藤優氏が迫った著書が『池田大作研究 世界宗教への道を追う』だ。ここでは同書を引用し、名誉会長を務める池田大作氏がどのように生まれ育ち、なぜ公明党創設への道を進んだのか、知られざる過去について紹介する。(全2回の1回目/後編 を読む)

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生まれた直後、「捨て子」にされた

 池田大作は、1928(昭和3)年1月2日、東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区大森北二丁目)で8人きょうだいの五男に生まれた。父の子之吉(ねのきち)は41歳、母の一(いち)は33歳だった。

 両親は太く大きく育ってほしいとの願いを込めて太作(たいさく)と名付けた。1953年11月に大作(だいさく)と改名する。ここでは、煩雑になることを避けるために、改名前も大作を用いる。大作には、兄が4人、弟が2人、妹が1人いる。

 大作は、生まれた直後に、あえて「捨て子」にされた。

 子年生まれの父は、名を子之吉といい、母は一で、私はその五男である。妙なことだが、生まれてすぐ私は捨て子にされた。私の生まれた昭和三年に、父は四十一歳で、ちょうど前厄の年に当たっていた。それで厄よけの迷信的風習から、私はとんだ目にあった。もっとも捨てた途端に、拾う人もあらかじめ決めていて、そんな手はずになっていた。

 ところが知人が拾う前に、だれかが拾って駐在所に届けてしまったから、一時は大騒ぎになった。消えた嬰児に、父母は大あわてにあわてたらしい。この話はよく聞かされたが、迷信はともかくとして、父母の心情には私が丈夫に育ってほしいという祈願がこめられていたのだろう

(「私の履歴書」『池田大作全集 第二十二巻』聖教新聞社、1994年、184~185ページ。以下書名のない引用は同書から)

 生まれた直後の記憶が残っている人はいない。大作も形式的に「捨て子」にされたが、誰かに拾われて駐在所に届けられて騒動になったという話を後に両親から聞かされたのであろう。そこには迷信にとらわれていたとはいえ、いったん、わが子を捨て、悪縁を断絶し、その子を拾い、新たな関係を構築することで、子どもの幸せを願う親の気持ちが表れている。運命を諦めて受け入れるのではなく、それを主体的努力によって転換するという発想が大作の両親にあった。

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創価学会の価値観にもつながるエピソード

 池田が「私の履歴書」を日本経済新聞に連載したのは、1975年2月から3月にかけてで、1960年に創価学会第3代会長に就任して15年目のことだ。『池田大作全集』の記載もこの連載がもとになっている。

 誰もが人間革命を行うことで宿命を転換できるという創価学会の価値観に基づいて池田は、出生のときに起きた「捨て子」のエピソードを再解釈しているのだと思う。両親の行為を迷信として切り捨てるのではなく、そこにあったわが子が丈夫に育ってほしいという親の愛を読み取っているのだ。