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生まれた直後“あえて”捨て子に…池田大作が公明党を創設するきっかけになった幼少期の悲劇

『池田大作研究 世界宗教への道を追う』より #1

2021/01/23

 共産党の動向を極秘裡に内偵をすすめていた警察当局は、3月15日未明を期して1道3府23県にわたって共産党員とその同調者と目される1568人を逮捕・勾留し、うち488人を治安維持法違反で起訴した。田中(義一)内閣は、事件の記事解禁の4月10日、労農党、評議会、全日本無産青年同盟の3団体を共産党の外郭団体との理由で解散を命じ、ついで、治安維持法の最高刑10年の懲役を死刑もしくは無期にひきあげるなど改悪し、全県警に特別高等課(特高)を設置するなど共産主義や社会運動に対する弾圧体制を強化した(『世界大百科事典』平凡社、ジャパンナレッジ版)

 6月4日には、関東軍高級参謀の河本大作大佐の謀略によって中華民国陸海軍の張作霖大元帥が爆殺され、日本と中国の関係は緊張した。

 他方、8月27日にはパリで不戦条約が調印され、日本もこれに加わった。戦争に向けた流れとそれを阻止しようとする動きが交錯する時代に池田大作は生まれたのだ。

青少年時代から脳裏にあった生死の問題

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 子どもの頃、池田は病弱だった。大作が2歳になったときに池田家は、入新井から糀谷町3丁目(現在の東京都大田区東糀谷2丁目)に引っ越した。その家の庭にはざくろの木があった。このざくろの木が池田の病気の記憶と結びついている。

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 二歳になって間もなく入新井から糀谷三丁目に移転した。広々とした屋敷内に、そのざくろの木が一本あった。幹には、こぶがあって、なめらかな葉を茂らせる。梅雨のころにだいだい色をおびた赤い花を咲かせると、光沢ある緑のなかで美しかった。黄赤色に熟して厚い果皮が割れるのが楽しみで、秋になるとよく木に登って、もいだ。透明な淡い紅色の種子が懐かしい。

 尋常小学校へ入学する前であった。私は突然、高熱を出し寝こんだ。肺炎であった。熱にうなされたことと、医者がきて注射を打ってもらったことを、鮮明に覚えている。ようやく小康を取り戻したころ、母は言ったものである。

「あの庭のざくろをごらん。潮風と砂地には弱いというのに花を咲かせ、毎年、実をつける。おまえもいまは弱くとも、きっと丈夫になるんだよ」。当時の家は海のすぐ近くで、歩いても十分とかからなかった。ざくろはそんな砂地にしっかり根を張っていた。

 人は人生のなかのいくつかの出来事を、仔細にそのときの色調までをも、まるで絵のように覚えているものである。そんな光景には概して自分の生き方なり、来し方なりが密接にかかわっているものである。若年の大半を病弱に悩まされつづけた私は、このときのことを忘れられない。

 青少年時代の私の脳裏から、人間の生死の問題がいつも去ることがなかったのは、やはり一貫して健康にすぐれなかったことと関係しているようだ。寝汗をびっしょりかいて、うなされながら“人間は死んだらどうなるんだろう?などと、いま思えばたわいないが、少年らしい青くささで考えたのは、小学生のころであった(195~196ページ)