卓越した記憶力と再現力
誰でも子ども時代の記憶は断片的だ。特に小学校入学前の出来事については、よほど強い衝撃を受けたことしか正確に記憶していない。
当時は、健康保険制度が普及していなかった。医師に往診してもらうには、多大な出費が必要とされた。池田の肺炎はかなり深刻だったのであろう。そのとき病床から庭を眺めて見たざくろの木の記憶が、生死に関する根源的な問いとつながっていくのだ。
ところで池田は、「人は人生のなかのいくつかの出来事を、仔細にそのときの色調までをも、まるで絵のように覚えているものである」と述べる。
筆者も記憶に関しては、映像型だ。印象的な出来事の映像が、色調を含め、正確に記憶にのこっている。最初、記憶は静止画(写真)なのであるが、それが動き出す。登場人物が動き、話し始めるのである。こうして、過去の記憶を復元することができる。
池田の著作を読んでいると、卓越した記憶力と再現力を持っていることに驚かされる。これは池田の記憶術が映像型であることによるものと思う。
池田家が糀谷町に引っ越した前年の1929年10月に米国ニューヨーク株式取引所で株価が暴落した。これが発端となり、恐慌が世界的規模に拡大した。恐慌の波は日本にも押し寄せた。
昭和5年(1930)前後に、深刻な農業恐慌を中心にして展開した恐慌。第二次世界大戦後、昭和恐慌と呼ばれるようになったが、欠食児童や娘の身売といった事態が生じ、白米が夢のまた夢になるといった、農村を中心として国民生活が惨状を呈した恐慌であった(『国史大辞典』吉川弘文館、ジャパンナレッジ版)
ただし、池田のこの時期に関する回想から昭和恐慌の影響はうかがわれない。
後の公明党創設につながる考え方
1931年9月18日夜、中華民国東北部の奉天(現・瀋陽)北方の柳条湖の南満州鉄道で中国軍が満鉄線を爆破したとして、関東軍(中国東北部に駐留する日本軍)は中国軍の基地を攻撃した。現在では、鉄道爆破は関東軍が行った謀略であることが明らかになっている。この柳条湖事件をきっかけに満州事変が始まった。こうして日本は戦争への道を突き進んでいく。
翌32年5月15日には、国家改造を主張する海軍将校と民間右翼らが連携して犬養毅首相を暗殺した五・一五事件が起きた。国内ではテロリズムに怯える雰囲気が醸成された。この年の9月15日には日満議定書の調印が行われ、日本の傀儡国家満州国が承認された。日本は英米列強との軋轢を強めていくことになる。その結果、33年3月27日に日本は国際連盟を脱退し、孤立を強めた。
1934(昭和9)年4月に池田は小学生になる。