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みのもんたは“老害”だったのか? 水道橋博士が語る「テレビの王様」の異常な姿

『藝人春秋2 ハカセより愛をこめて』より #1

2021/02/09

source : 文春文庫

genre : エンタメ, 芸能, 読書

note

死んだような会社員生活

 文化放送を35歳で辞め、44歳で『午後は○○おもいッきりテレビ』の司会に抜擢されるまでの、ちょうどその空白期間。

 みのもんたが、まるで、みの虫のように冬眠を強いられていた、冬の時代。

 レギュラーはテレビ東京の月曜20時からの生放送『お笑い名人会』のみ。

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 その司会を務めるため、週1回、収録会場である浅草演芸ホールを訪れていた。

 過去を振り返るいくつかのインタビューからみのもんたの心情を想像すると──。

「ラジオのブームも終わって『セイ!ヤング』を降板させられたんです。……花形DJからまたニュース読みだけの地味な泊まり勤務に逆戻り。スーパーの店先でスポンサーの新製品を売る仕事なんかしていて、存在感ゼロ。悔しかったねぇ……死んだような会社員生活を2年半くらいやってとうとう辞表を出した。もう家業の水道屋で頑張ろうって。会社からは慰留も送別会もなかった……。フリー転身後、歌の新番組に起用されて、番組を持たせてもらったのに、低視聴率で半年で打ち切り。申し訳なくてねぇ、惨めでねぇー。こんな思いはたくさんしたよ……その後『プロ野球ニュース』やリポーターでテレビとの縁をつなぎながら、家業の営業マンとして全国をライトバンで回ってね。転機になった『おもいッきり』の出演依頼を受けた時は、もうー心の底からうれしかったよ」

©iStock.com

 慢心、挫折、一念発起、起死回生。

 後にテレビ東京で人気を博した『愛の貧乏脱出大作戦』は、みのもんたの人生そのものだったのかもしれない。

手渡された「御法川法男」の名刺

 ボクがみのもんたに初めて会ったのは、まさにこのどん底の時期だ。

 ただ、当時はそんな事情はつゆ程も知らなかった。

 我々、浅草キッドは駆け出しの1年目で、演芸ホールと同じビルにあり、かつて師匠ビートたけしも修業したストリップ小屋の浅草フランス座に預けられていた。

 楽屋に泊り込み、赤貧のその日暮らし。

 テケツ(切符売り場)の前でハッピを着込み、呼び込みとして「ストリップとコント見ていきませんか?」と道行く人に声をかける日々だった。

 そこに決まって、毎週月曜日、みのもんたが現れる。

 芸人の常で「お疲れ様です!」とボクらが義務的に頭を下げると、見ず知らずの我々を素通りすることなく、みのもんたは必ず立ち止まってくれた。

 そして、必ず話しかけてくれるのだ。

「へぇ~。君たちは、たけしさんのお弟子さんなんだ」

「で、田舎はどこ? 将来の夢は? 給料は幾ら貰っているの? それで暮らせるの?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせる。本人にとっては何気ない会話であっただろうが、後にお昼の生放送で、彼が言うところの「お嬢さんたち」相手に話す時にも見せた、実にナチュラルで気さくな語り口だった。

 ある日、「これ渡しておくよ」と名刺をいただいた。

 そこには「御法川法男」という本名と実家の水道メーター会社の役職が記されていた。

 水は方円の器に随う──。

「水道橋博士」の名前で芸人人生を開栓したばかりのボクにとって、これから一体どんな人生になるのかと不安だらけの日々だったが、いきなり訪れたこの奇縁、思いがけない有名人との名刺交換は、強く記憶に刻まれる、忘れ難い出来事となった。