「家族の中で私だけがハズレなのです」
〈私の生まれたところでは、春から5月にかけて「映山紅(日本名・ツツジ)」という花が咲き乱れます。その花は日本でいう桜に似たようなものでしょうか。色は赤……。日本と同様に私たちの村にも春夏秋冬がありました。秋には紅葉、冬には雪がふります。1月2月などは一面真っ白に雪で覆われ、気温はマイナス20度に下がり、小川は凍りつきます。私が嫁いだ千葉にも、たまに雪が降りましたが、ほんの淡雪ですぐに融けてしまいます。それでも私は故郷のことを思い出し、胸がキュンとします。家の近くには小川が流れ、私はそこで夏は水遊びをしたり、春は冷たい水の音を聞いたりしながら友だちと暗くなるまで遊びました。
村の人口は1000人ぐらい。過疎化が進み、若い人たちはどんどん都会に流出しています。そしてお年寄りばかりが取り残されていました。その姿は、日本の田舎町と重なるところがありますね。
私は、そこで、12歳まで過ごし、6年生になる前の春休み、方正県に引っ越したのです。家の都合による転居でしたが、1日1便しかないバスに揺られ、行けども、行けども、なかなか着かず、とても不安だったのを覚えています。
私の小さいころからの夢は学校の先生になることでした。というのも、母がしばらくの間、小学校の先生をしていたからです。その影響で私も大きくなったら学校の先生になるものだと思って育ちました。
高校は方正県の男女共学の高校でした。そこそこ勉強もしたので、成績はけして悪いほうではありませんでした。そこで私は初恋を経験しました。その彼は成績も良く、日本のことが大好きで、いつも富士山が見たいと言っていました。しかし、その彼はある事故で突然亡くなってしまいました。だから、私は、日本にあこがれるようになったのです。〉
あくまで詩織の自己申告だが、詩織が現在子どもたちを預かってもらっている姉も、一時教師をしていたことがあるという。さらに叔父は元高等学校の校長を務めていたという。それが事実なら、詩織は、教員一族の一人でもあったといえる。
ある面会時、「そんなに先生が多いんだ」と聞くと、詩織はパッと顔を赤らめたあと、ひとり淋しそうに、こう呟いたものだ。
「家族の中で私だけがハズレなのです」
私が、詩織についてのそんな回想に浸っていると、街の人たちと話していた馬が戻ってきて、こういう。
「田村先生、先生が目指している白丸という集落は、ここからまだ数キロ先にあるようです。ですが道路が整備されておらず、徒歩か馬車、よほど高性能の四輪駆動車でなければ行けないところだそうです。この車では前に進めません。どうします」