大学時代の活躍から大きな期待をかけられ1958年巨人軍に入団し、新人王、本塁打王、打点王を獲得。以後、74年に引退するまで、勝負強いバッティングと華麗な守備で「ミスター・ジャイアンツ」として国民的人気を得た。
ここでは、そんな長嶋茂雄氏唯一の自伝『燃えた、打った、走った!』(中央公論新社)を引用し、現役引退を見据え始めたミスターが、川上哲治監督にかけられた言葉を紹介する。(全2回の1回目/後編 を読む)
◇◇◇
「3割は打てんぞ」
巨人の監督の座――。
それは1秒1秒に骨身をけずるような厳しいものにちがいない。
ぼくがその座を引き継ぐのが、既定の事実のようになってきたころ、
「できるものなら断って、野球からきれいさっぱり身をひいたほうがいい」
と、忠告してくれる人が圧倒的に多かった。先輩や友人たちは、みんな口をそろえて監督就任に反対した。ぼくのことを心底からおもってくれる人ほど、反対の度合いは強烈だった。
反対の理由は、巨人のチーム力の低下である。ドラフト制がしかれてから、次代の戦力となるはずの有望新人があまり入ってこないうえ、レギュラーの平均年齢が年々高くなってきている。それはだれでも認める動かしようのない事実だった。
友人のひとりなどは、
「今の巨人は、川上さんがおいしいところをしゃぶりつくしたダシガラみたいなもの。新しい味をつけていくのは、それこそホネだぞ」
と、ひどいことをいった。
川上監督の業績が偉大だからこそ、あとを引き継ぐ者は、2倍も3倍も苦労しなければならないという点で、友人たちの意見は一致していた。
女房の亜希子も、強く反対したひとりだった。バットマンとしての苦労とは、またちがった苦労をぼくが背負いこむことを、女房は見ていられなかったのだろう。10年近く、喜びも悲しみもわかちあってきた女房の気持ちも、ぼくにはよくわかった。
野球はしかし、ボクシングやゴルフなどの個人競技とは性質がちがう。ピッチャーとキャッチャー、サードとファースト……つねに人と人とのつながりで動いていくものだし、相手のチームもまたそうでなくては成り立たない。日本シリーズにしても、パ・リーグというもう一つの組織が健在だから、ちゃんと試合ができるのだ。
プロ野球そのものが、危機説で大きく揺らいでいるときに、ぼくが自分の勝手な考えで行動していいものかどうか。人と人とのつながりのうえに立って、バット1本でメシをくってこられたというのに、
「やーめた」
と、抜けることはぼくにはとてもできない。それはもう一つの“勝負”から逃げだしてしまうことにもなる。
「どうしようもないんだ。あえてオレが泥をかぶるさ」
ぼくは、そういって女房を説得し、友人たちにも納得してもらった。
ただ、49年のシーズンだけあと1年、バット一筋に目いっぱいやらせてもらうについては、ぼくなりに考えがあった。
これまでの選手生活は、そのときどきに多少の波はあったとはいえ、一応、順風満帆だったといえる。ほんとうの意味での逆境を、骨身にしみるほど味わったことはない。
監督という管理職につくにあたって、これではいけない、とぼくは考えた。得意と失意とが背中合わせになっているのなら、ここで1年間、とことんまで失意の時期を味わおう。人をまとめ、チームを強くしていくうえに、そのことはきっとプラスになるはずだ――。