1ページ目から読む
4/5ページ目

 プレーボールがかかる30分前。ぼくは、ロッカールームのそばにいた出入りの運動具屋さんから、セーム皮の手袋をひとつ買った。

「長嶋さん、早くしないと始まっちゃいますよ。色は何色にします?」

「白。ほら、その真っ白なヤツをくれ」

ADVERTISEMENT

 目にしみるような純白の手袋だった。

 プロ入りした17年前も、上から下まで白ずくめで球場入りして、みんなを驚かせたことがある。白は青春の色、惜別の色だった。

みるみるうちに下がっていく打率

 6回。

 ぼくは、レフト中段にライナーですっとんでいくホームランを打った。三つのベースをまわりながら、いつかぼくは白い手袋をはめた両手をバンザイするように振っていた。

 このあと、5月のしょっぱなに満塁ホーマー、10日の中日戦では逆転の2塁打を打ったが、調子はじりじりと落ちてきた。ロードの9試合で、ヒットはたった4本。

 チームも勝てなかった。

 5月末の阪神戦では17点もとられ、スタンドから座ブトンの雨がふった。球団史上二度目という大量失点に、ぼくは守りながら歯がみするばかりだった。

 そのころ、下半身のバネをなんとか取り戻そうとして、ナワとびを始めた。1日のノルマは500回。慣れてくると、一気に300回ぶっ通しで跳べるようになった。

 だが、ぼくの打率はみるみるさがっていった。一時は2割1分台にまで落ちこんだ。広島へ遠征したときには、スタンドの広島ファンに、頭から紙コップのビールを浴びせられた。

 打てども打てども、ヒットはでなかった。それでも、ぼくはコケの一念のようにバットの素振りをくり返した。ときには1時間半、途中でちょっとひと息いれただけで振って振って振りまくった。

「きょうはスタメンを休んでくれ」

「おい、長嶋、ちょっときてくれ」

 川上監督に呼ばれたのは、試合前の練習でひと汗かいてロッカールームにはいろうとしたとき。

©iStock.com

 6月13日。中日との試合が始まる2時間ほど前であった。

「きょうはスタメンを休んでくれ」

 監督の指示は短かった。

 スタメン、というのは先発メンバーのことだ。激しいペナント・レースの真っ最中に、9人のメンバーからぼくの名が消えるのは、事実上、これが初めてといっていい。

 いつかはこういう日がくる、とは思っていたが、それが現実にきてみると、やはり気持ちは複雑だった。

「わかりました」

 そう監督にこたえながら、無理に笑おうとした。が、ホオのあたりがニカワでもくっつけたみたいにこわばっていた。

 7回に代打で出場したけれど、スタンドの万雷の拍手が、このときほど耳に痛く響いたことはなかった。ユニホームを着ている限り、一歩もひけない、それが生きがいだ、と思いこんでいるぼくのような男にとって、ダッグアウトの椅子のつめたさは、なんともいえないほどこたえた。