試合後、ロッカールームを一歩でたとたん、カメラのライトがぼくを照らした。びっくりするくらい大勢の報道陣だった。引退の声明でもはじめると早合点したのだろうか。
ぼくは、平静だった。
「おーっ、きょうはどうしたの。たまに休むとお座敷がかかるなあ」
と冗談をとばして、みんなを笑わせ、
「気分転換になって、きょうみたいなのもいいんじゃないの」
そういって、さっと球場をあとにした。
わざと強がったり、ひがんだりするつもりは正直、ぼくにはなかった。これでいいのだと、すっぱり割り切っていた。
ベンチを暖めるのもいいじゃないか。この体験が苦ければ苦いだけ、あとで生きてくる……。ぼくはそう思った。
試合にさえ出られれば何だっていい
6月のなかばを過ぎてから、ぼくに今度はトップ打者の新しいオーダーがまわってきた。試合にさえ出られれば、何番だっていい、というのがぼくの気持ちだった。
「よし、それならひとつ、きょうは往年の俊足ぶりをお見せしましょう」
川上監督にそういうと、
「うん。なんでもやってみることだよ。ワシも最後のシーズンは2番を打ったものさ」
と、監督はヘンな自慢(?)をした。
聞くところによると、あの大打者メイズでさえ、マッコビーがどんと4番にすわったジャイアンツ時代の終わりごろ、3番からトップへあがって、“万年青年”といわれたニックネームそのまま、楽しそうにプレーしていたという。ジメジメと考えこむことはなにもない。
トップのつぎは5番、そのつぎの試合では3番……とぼくの打順はめまぐるしく変わった。マスコミがどう論評しようと、ぼくはいっこうに反応しなかった。ぼくから、グチや泣きごとを引きだすのは、どだいムリなのである。
巨人担当の記者たちは、ぼくがいつもケロッとしているので、ずいぶん判断を狂わされたようだ。
「あの調子なら、ほんとにもう1、2年プレーするんじゃないか」
という声も、ずいぶん耳にした。どんな逆境にいても、サラッとしていられる自分の強さが、ぼくには意外でもあり、うれしくもあった。
川上監督が現役にピリオドを打ったのは、38歳のときだった。カネさんも、やはり38歳。ヤマさんこと山内(一弘=元中日監督)さんもそうだ。
現役最後の打席、最後の打球
49年10月14日。すでに20年ぶりの優勝がきまっていた中日との最終戦が、ぼくにとって、現役最後の公式戦となった。佐藤投手から打ったぼくの最後の打球は、ショートの三好のやや右へころがっていった。
秋晴れの下、スタンドを埋めつくしたファンのすさまじい拍手。ファーストを懸命に駆け抜けたとき、やるだけやったという爽やかな充実感が、ぼくを満たしていた。別離のかなしみはなかった。
17年間にわたって燃え、打ち、走ってきたぼくの通算成績は、出場試合数2186、打率3割5厘2毛、ヒット総数2471本、ホームラン444本、打点1522、得点1270。
それは、長嶋茂雄という男が残したせい一杯のたたかいの記録でもあった。