川上監督からの「言葉のパンチ」
やはり、そうだったのだ。ゆうべのあの厳しく突き放すような叱責は、ぼくを怒らせ、燃えたたせるためのものだったのだ。中途半端な刺激では効果がないとみて、わざとああいう強いことばを使ったのだ。
打ちたい、打ちたいという気持ちにとらわれすぎ、無心でなくなっていたぼくは、あのひとことでカッとなって、頭の中が空っぽになった。なったから、ただ夢中で上田のボールに集中できた。むろん、ぼくという男が、監督の叱責ぐらいで、へこたれるような弱いヤツじゃないことを知ったうえでの言葉のパンチだったろう。
監督という商売は、それにしても、なんとつらいものなのか。なんと非情なものなのか。もう、あのときからぼくに対する監督業の修行が始まっていたのかもしれない。
阪神との第2戦は、しかし、ぼくにとってさらに厳しい試練を用意していた。久しぶりに4番に戻ったぼくは、目の前にころがってきたゴロを右手くすり指に受け、わずか2イニングで退場しなければならなかった。
第三結節の骨折。全治1ヵ月。
34年、阪神のバッキーにぶっつけられた箇所が、もろくなっていたらしい。
打球がイレギュラーしたとき、グラブをだせばよかったのに、つい反射的に右手をだしてしまったぼくの責任だった。
真っ赤な血が、指先からポトポトとしたたり落ちた。見ると、指が逆の方向へひんまがっている。
「だいじょうぶか?」
と、のぞきこんだ川上監督の顔から、血の気がひいていくのが、ぼくにはわかった。
プロ入りして初めて、ぼくはグラウンドで泣いた。なみだは、熱いしずくとなって、あとからあとから噴きだしてきた。
春先の死球に始まって、こんどは骨折。痛みからではない。思いを残してしまったことへの痛恨のなみだだった。
最後のシーズン
右手のキズはいえた。
はじめて大仁ごもり(長嶋茂雄が現役時に行っていた伝説の山ごもりトレーニング)をやめたぼくは、いよいよ現役最後のシーズンにはいった。
49年4月6日。開幕第一戦のこの日は、カラリと晴れあがっていた。
家では女房が赤飯をたいた。オヤジのぼくの最後の門出だったばかりか、この日は長男一茂の小学3年生の始業式であり、長女有希の幼稚園の始園式でもあった。
「うれしいスタートが、三つも重なったわね。ああ、忙しい、忙しい……」
と、ウチのヤツはほんとうに楽しそうに台所から居間を往復した。
ぼくには、彼女の気持ちがよくわかった。選手・長嶋を開幕試合に送りだす最後の日。センチメンタルになりがちなときを、つとめて楽しげにふるまっているのだろう。
家をでるとき、見あげた空の目にしみるような青さ。互いに引退の“イ”の字も口にしないまま、ぼくは後楽園へむかった。