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2021/02/08

source : 文春文庫

genre : ニュース, 社会, 政治, 経済, 読書

四男が経営の舵を取るようになった理由

「次男の勤さんは政界や財界との付き合いを大事にしてきた人でした。したがって、功さんが営業面や政界工作で力を発揮できたのも、ある意味で勤さんの人脈があればこそでした。しかし、失敗もありました。たとえば勤さんの長男が、三重ケーブルテレビという新規事業に手を出した。そこに水谷建設の資金を何億円もつぎ込んでしまったのです。それが、さっぱりうまくいかなかった。要は息子可愛さのせいでしょうけど、他のきょうだいたちはおもしろくない。とくに女性陣から突き上げがあって、社長になった次男、勤さんの立場が危うくなっていったんです」

 もう一人の三男の紀夫については、こう言う。

「もともと紀夫さんは、建設業界に詳しくなかった。工事現場でもあまり見かけなかった。それで、バブル時代に三重県内で涼仙ゴルフ倶楽部というゴルフ場開発に熱心になり、水谷建設から離れていった。会員権の販売で一儲けしようとしたのでしょうか。ところが、これも大失敗でした。開発費用にかかわる銀行融資は、水谷建設の債務保証があってはじめて調達できたが、ゴルフ場の建設は前田建設がしているけど、その費用も未払いのまま。何十億円という焦げ付きが発生してしまい、のちのちまでそれらは解決できていませんでした。そんなことがあり、功さんが水谷建設本体の経営の舵取りをしていくことになったのです」

水谷功は小沢一郎との関係を持つなど政界にも人脈をつくっていく ©文藝春秋

年商を倍増させた手腕

 涼仙ゴルフ倶楽部は、94年から00年まで雪印レディース東海クラシック、01年から06年までマンシングウェアレディース東海クラシックなど、プロゴルフトーナメントを開催してきた名門コースとして知られる。だがオープン以来、経営そのものは苦しく、やがて事実上の銀行管理状態に陥った。もとより経営失敗の責任は、三男の紀夫にあった。一方、残る四男の功は、そんな二人の兄のつまずきとは裏腹に、みずからの足場を固めていく。

©iStock.com

 もとはといえば、末弟の功は工事現場の工事部長だった。そこから86年に常務になり、次男の勤が社長に就任すると同時に、89年4月、代表取締役副社長の椅子に座る。この間、土木工事の営業やその他の実務をさばいてきた。水谷功は、年商200億円程度だった会社の売上を400億円規模にまで倍増させた。否応なく、親族のあいだでその実力を認められ、社内で権勢を振るうようになっていく。