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複雑な親族のいさかい

 正は高度経済成長の波に乗り、もともと一介の人夫斡旋業でしかなかった水谷建設を中堅ゼネコンに押しあげた。

「正さんはまじめで仕事に厳しい人でした。正さんのころから準大手の前田建設との仕事が増え、私たちも孫請けとしてそこに入らせていただきました。会社を大きくした功労者が正さんです」

 先の取引先の建設業者が、そう説明してくれた。だが、正は社長在任13年目、とつぜん亡くなってしまう。代わって89年4月、次男の勤が社長になった。そこから社内の様子が変わっていく。取引業者が続ける。

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「すでに地元の三重や東海地方では、水谷建設はそれなりに認知されていました。だから必死で営業する必要性を感じなかったのかもしれません。急きょ社長になった次男の勤さんは、あまり建設業の経営に関心がなかったようにも思います。会社のトップとして、君臨すれども統治せずというタイプでした。それより財界活動や政治家との人脈づくりに精を出していた。だからあまり建設工事の現場には口出ししなかった。そんな勤さんは三男の紀夫さんよりむしろ功さんの営業力を買っていたのでしょう。やがて功さんに建設工事の現場を任せていったのです」

 水谷建設は、兄弟や親族で経営してきた典型的な同族企業である。だが、多くの同族会社がそうであるように、会社が大きくなるにつれ、経営に携わる兄弟間のいさかいが絶えなくなる。誰もが認めてきた跡取りがとつぜん亡くなると、兄弟のあいだの亀裂が表面化するのは必然だったかもしれない。水谷建設の元重役が、そんな複雑な水谷家の親族のいさかいについて、説明を補う。

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「会社の株は、親族で大部分を保有していましたから、長男がなくなり、それを配分するだけでも大変です。長男である正さんの持ち株は、その息子に引き継がれ、のちに彼は専務として会社の経営にもタッチするようになりました。8人きょうだいのうち、女性陣は直接会社の経営に携わることはなかったけど、たとえば代わりに次女の婿さんが取締役になっていますし、長女は双子を生んで、その娘の婿さんがどちらも水谷建設の役員です。うち一人が社長になった川村さんで、功さんにとって、川村さんは姪婿になる。功さんが川村さんを社長に据えたのは、親族だからですけど、親族の一人を取り込む意味もあったのではないでしょうか」

 要するに、会社の経営の実権を握ろうと思えば、親族同士で役員の多数派工作をする必要がある。水谷功は水谷家の男兄弟のなかでいちばん末である。ただでさえ、立場的には弱い。にもかかわらず、やがて実権を握り、会社を牛耳っていくようになるには、それなりに事情があったという。水谷建設の元重役が続ける。