「原子力政策で国はあらためて国民の合意形成に努めるべきだ」
そう提言し、プルサーマル計画が閣議決定されてことが進んだ。東電社長の荒木浩が福島県庁を訪れ、知事の佐藤栄佐久にプルサーマル計画に対する協力を要請した。
原発トラブル頻発で経営幹部総退陣
だが、原発トラブルにより、その風向きが変わる。97年3月、茨城県東海村の動燃再処理工場のアスファルト固化施設で爆発事故が発生し、それを契機に県内で計画反対運動がわきあがった。次いで翌98年10月には、福島第一原発で定期点検中だった二号機の原子炉格納容器内でビニールシートが燃え、五号機タービン建屋内のヒーターから発煙する。12月には、ついに高温焼却炉建屋内で低レベル放射性廃棄物入りドラム缶から出火し、大騒ぎになった。そこからトラブルはまだまだ続いた。さらに99年の1月になると、今度は福島第二原発で廃棄物処理建屋内の空気予熱器付近から出火。次は定期検査中の一号機タービン建屋内で溶剤が焼け、問題になった。
極めつきが02年9月、原子炉における格納容器気密試験のデータ偽装の発覚だ。一連のトラブルのおかげで、福島県内の原子炉はいっとき10基すべての運転停止を余儀なくされてしまう。
そしてこのデータ改竄事件を境に、それまで原発容認派と見られていた福島県知事の佐藤栄佐久が再操業反対に転じた。佐藤はプルサーマル計画の白紙撤回を求め、福島県内にある第一、第二原発ともに操業再開の目途が立たなくなる。
「90年代から02年の検査データの改竄問題にいたる不祥事で、福島県内の原発は停止したままになりました。そのせいで、東電首脳は大慌てでした。福島は東電発電量の15%をしめる最重要拠点だけに、深刻な問題だったのです」
福島県で水谷建設の関連事業を担った関係者の一人はそう話す。当時の原発トラブルは東電に決定的な打撃をもたらした。会長の荒木をはじめ、社長や相談役にいたるまで経営幹部が総退陣するほどの不祥事に発展した。
東電が躍起になった原発再稼働
「原子炉の運転を再開できなければ、東電には一日に1億円の損失が出ると言われていましたから、原発の再稼働は急務でした。05年の株主総会までにできる限り多くの原子炉再稼働をする。それが社内の悲願だったのです」
福島第一原発に勤めていた幹部社員はそう嘆いた。文字どおり弱り果てていた東電は、原発の再稼働に躍起になる。水谷建設の不明朗な資金操作が発覚したのは、まさにそんな折の出来事だった。
水谷建設が東電から請け負った問題の福島第二原発の残土処理は、2000年から2005年までの5年間とされた。これは、どんな意味をもっていたのだろうか。