一般には知られていない中堅ゼネコンの社長にもかかわらず、永田町では知らぬ者のいない有名人だった男が2020年12月17日に帰らぬ人となった。その男の名前は水谷功。小沢一郎事務所の腹心に次々と有罪判決が下された「陸山会事件」をはじめ、数々の“政治とカネ”問題の中心にいた平成の政商だ。

 彼はいったいどのようにして、それほどまでの地位を築き上げたのか。ノンフィクション作家、森功氏の著書『泥のカネ 裏金王・水谷功と権力者の饗宴』より、芸能界でも幅を利かせていた男の知られざる正体に迫る。(全2回の1回目/後編を読む)

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新たなダムの取り組み

 昭和49(1974)年に「治水」「都市用水の供給」「発電」を目的に手取川総合開発事業の一環として工事に着手し、6年の歳月と約770億円の予算をかけ、昭和55(80)年に完成しました。高さ153m、総貯水量2億3100万立方メートル(有効貯水量1億9000万立方メートル)。ダム建設に伴う水没面積は約510ha、補償戸数330戸にのぼった、日本でも最大級のロックフィルダムです

 国土交通省北陸地方整備局金沢河川国道事務所のホームページを開くと、石川県の手取川ダムについてこう記してある。県内最大の手取川は急流で知られ、古くから多くの水害をもたらしてきた。もとはといえば、治水事業の一環として計画されたダムだ。その一方、地元では水力による発電機能にも期待が寄せられた。発電目的のダムは、電力関係企業を所管する旧通産省の管轄だったが、1970年、旧建設省北陸地方建設局と電源開発、石川県の共同事業として計画がスタートしている。手取川ダムは省庁間にあった旧来の縦割り行政の壁を越え、北陸の九頭竜川水系の電力開発に区切りをつけた電源開発が、白山山系の豊富な水量を利用すべく建設された新たな試みだったともいえる。

 文字どおり、岩石を積み上げてつくるロックフィル工法のダムもまた、それまで日本ではあまり馴染みがなかった。いきおい建設業界では工事の成り行きが注目された。そして、前田建設工業が元請け業者としてその建設工事を担い、そこに下請け業者として加わったのが水谷建設である。なにしろ、予算770億円の日本最大級ダムの工事だ。これが、水谷建設にとって業績拡大の大きな転機となる。

舞い降りたチャンス

写真はイメージです ©iStock.com

「あれが、日本のロックフィルダム建設のはしりやったんや。まだ日本では経験が少ないせいかもしれん。そう簡単やなかった。元請けの前田建設は、ダムの基礎となる石を運ぶのに、大きなタンカーまで買うた。ところが、建設省から工事を受注し、いざ工事に入るという段階になって、ものすごい赤字が出そうなことがわかったんや。それで、前田がフラフラになってしまったんだよ」

 孫請けとしてダム工事に参加した水谷功の懐刀の土木業者が話す。

「このときの前田の下請けが水谷ともう1社、山崎(建設)やったんや。ダム建設においては山崎のほうが実績があり、山崎がメインで水谷は補佐役だったんや。しかし山崎は、元請けの前田が大赤字になるんでは計画がもたん、いう判断をしたんやろう。さっさと工事から手を引いてもうた。困ったのは前田や。で、水谷正(編集部注:当時の水谷建設社長。水谷功の兄にあたる)さんが頑張ったんやな。正さんは偉かったで。自分のところの私財をなげうって工事の費用を調達して、どうにかこうにかダムの工事を仕上げたんや」