おかしくなった廣瀬
蒼白になって、ひたすら頭を下げる廣瀬。
それでも、彼女の泣き叫ぶ声がずっと法廷にこだまして消えることがない。
やむなく裁判長が言った。
「15分、休廷にします」
それからだった。廣瀬がおかしくなってしまったのは。
失語症のようになり、弁護人との接見でも言葉を交わせなくなったようだ。聞くところによると、拘置所の中で新聞を読んでいても、例えば「麻雀」という文字が目に飛び込んだだけで「麻原」と読めてしまって身体に異常を来たしていたという。
豊田、杉本といっしょの公判にも出て来られなくなってしまい、しばらくは2人だけの裁判が進んでいた。
そんなある時、どうしても裁判の進行上の手続きの関係で、一度だけ法廷に姿を見せたことがあった。
廣瀬だけに設けられた特別の法廷。
その時の廣瀬は、麻原の比ではなかった。
短髪に整えられていた頭は、四方八方に雑草のように髪がのび広がり、髭も口も喉も見えないほどの剛毛が広がっていた。そして、上半身が硬直してしまったように緊張して、腕も胸のあたりに固まっている。
そして、裁判長の呼び掛けに、返事をしようと息を吸い込むのだが、声が出ない。そして、思い切って取り憑かれたものを振り払うように、腰から上を前方に勢いよく2度3度と押し倒すのみ。上半身は緊張したまま。それが彼にとって「はい」の返事だった。
「それは、それでいい、ということですか」
裁判長が確認しても、やはり全身に力を込めて、苦しそうに同じポーズを繰り返すしかなかった。
ほんとうに、おかしくなってしまっていた。
こうした廣瀬の裁判の一部始終を見ていた裁判長が横山を裁く。
ところが、横山にはそうした対象もなかった。
はっきり、間違いを指摘してくれる存在もなかった。
事件全体として死者12人全て共同の責任を取るといったところで、やはり林郁夫にしろ、廣瀬にしろ、直接的な被害者の存在の大きさは避けては通れなかった。