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恵比寿横丁開業までの困難な道のり

 浜倉さんがオープンに向けて動き始めたのは今から10年ほど前。

「当時、急増していたチェーン店に、若い世代が飽きだしていた頃でした。だからといって大衆酒場に興味を抱いても、店主も客も年齢層が高いため、なかなか入りづらかったのです。つまり、世代間のコミュニケーションが断絶されていて、とてももったいない状況でした。僕自身、古くからあるお店や文化が好きなのですが、古き良き文化と若い世代を媒介する人がいないし、場所もなかった。それならば、人工のものにはなるけど横丁を作って、僕が古いものを生まれ変わらせて、世代を超えたコミュニティを作り、次世代に継承していこうと考えたのです」

 しかし、恵比寿横丁は3か所ある入り口それぞれで地権者が異なり、しかも交渉はなかなか進まない。さらには開発について地元の人たちの反対にあうなど、案の定、準備は難航した。そんな時に浜倉さんを支えてくれたのは、シャッター街の中で1軒だけ営業を続けていた魚屋の年配の夫婦だった。

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「そこの大将に『今は寂れているけど、昔はすごく賑わっていたんだよ。この場所をもう一回明るくしてくれたら自分も楽しいから、やれやれ!』と背中を押していただいて」

 その結果、開発から2年を要したが、なんとかオープンへと漕ぎ着ける。最初は13店での船出となった。

浜倉さんの隣は中国小盆屋台「浜椿」オーナーの石川さん。個性的な店主たちが恵比寿横丁を盛り上げる

【大繁盛の理由その1】テナント集めは、人気店ではなく店主の個性と人柄を重視

 一般的に商業施設では行列のできるような人気店をテナントとして誘致するケースが多いが、恵比寿横丁の場合はまったく異なり、浜倉さんの周りで飲食業に従事していた人たちに声をかけて店を任せている。「個性的かつ長屋のようなご近所づきあいができる人を最優先しました」。各店舗の図面は浜倉さんが全て監修し、誰がどの場所でどんな業態の店を開くのかについては、一発勝負のジャンケンで決めたという。

「恵比寿横丁全体でひとつの店という考え方なので、店の業態のかぶりはなし。出店予定者には事前にそれぞれが希望する場所と業態の情報を共有しておき、場合によっては譲り合ったりしながら、店を決めていきました。もしジャンケンに負けて希望する業態になれなかった場合は、別の業態に変えるか辞退するかのどちらか。ふざけているようですが、実はジャンケンが一番公平で、勝ち負けだけではなく、そこからテナント同士の会話が生まれ、交流が始まる。それが大事なんです」

【大繁盛の理由その2】ルールを設けず、ニーズに合わせて柔軟に対応する

 また開業後は、店に対してルールを設けず、営業時間もバラバラだった。

「各店舗には“23時くらいまでは店を開けといてな”と伝えたくらいで、あとはお店の自由。むやみにルールを決めてしまうとマーケットニーズに応えられなくなりますから」

 今では多くの店が夜中まで開店しているが、オープン当初、深夜営業は1軒だけだった。

「その店しか開いていないから、連日深い時間でも満席になりました。するとほかの店が“うちも朝まで開ける!”“ランチやーめた!”となって、どんどん深夜営業の店が増えていったんです」

デザインの細部にまでこだわり、昭和時代の看板を再現している