難産だった『水戸黄門』
そう、視聴率抜きには番組は成立・継続できないのである。濃淡の差はあっても、制作者の視聴率に対するこだわりは強い。もちろんテレビ局の経営者もだ。
たとえば、69年8月に始まったTBSの『水戸黄門』が今日まで続いているのは、20%を超える高い平均視聴率を維持してきたからである。
番組の放送枠月曜日20時は、56年から松下電器産業が一社提供する「ナショナル劇場」として定着、『青年の樹』『七人の孫』などのヒット番組を生み出していた。同枠のキーマンが松下電器の東京宣伝部員だった逸見稔。テレビ番組制作の素人である逸見が企画をリードできたのは、テレビ草創期で関係者全員手探りという事情があったからだ。今でも言えることだが、制作経験の長短やテレビ技術に知悉しているかどうかではなく、ヒット番組の産みの親こそが偉いのである。
「ナショナル劇場」で数々のヒット作を送り出した逸見だが、60年代半ばからTBSとドラマ路線の喰い違いが目立ち始め、松下提供の仕事の重心を他局に移していた。それに合わせるかのように「ナショナル劇場」は低迷、TBSは逸見に「視聴率をとれるドラマを」と復帰を要請した。同時に松下幸之助会長からは、「世のため、人のためになる番組を作れ」という号令が下った。
日本人の心のふるさと
逸見の頭をよぎったのが、『忠臣蔵』の大石内蔵助と並ぶ国民的ヒーロー、水戸黄門である。フジテレビでほぼ一貫して時代劇を作り続けてきた能村庸一は、その著書『実録 テレビ時代劇史』(東京新聞出版局)でその企画の意図をこう書いている。
逸見の狙いは、時代劇をホームドラマとして描いていく事にあった。すなわち水戸の隠居を中心とする助さん格さん、風車の弥七は、主従というより家族に近い人間的な触れ合いのある暖かいもの。いわば『七人の孫』の時代劇版であった。うっかり八兵衛、かげろうお銀と次々三国志風にファミリーが広がっていく中で、黄門主従は「旅」というキーワードで、日本人の心のふるさとに触れた
頑固で茶目っ気のある好々爺黄門さまにとって、助さんや格さんは主従というより孫のような存在というわけだ。
だが、TBSは難色を示した。月形龍之介主演の『水戸黄門』を放送したばかりという事情に加え、NHK大河ドラマの向こうを張った中村錦之助主演の大作『真田幸村』が空振りに終わり、局内に時代劇アレルギーが蔓延していたからだ。
激論の結果、松下側の意向を受けた広告代理店の電通が局を介さず、関連制作会社の「C・A・L」に制作を発注することになった。つまりTBSは放送枠を提供するだけで、制作・著作権はC・A・Lに帰属するという変則的な形が生まれたのである。TBSは著作権という大きな果実を失うことになったが、「勧善懲悪のマンネリ番組」「究極のVSOP(ベリー・スペシャル・ワン・パターン)番組」と言われながらも高視聴率番組を確保することになった。