水谷建設を例に挙げるまでもなく、ゼネコン業界ではサブコンと呼ばれる下請け業者が裏金づくりの役割を担ってきた。業界ではこうした下請けゼネコンのことを「協力会社」あるいは「名義人」などと呼んで重宝してきた。再び先の談合担当元役員が説明する。
「平島のカバン代わりと呼ばれる理由は、裏金を入れる器という意味です。実は、平島さんが大林組を辞めた直接のきっかけが、この宮本組でした。当時の大林組の専務が、『なんでもかんでも宮本を下請けに使え、では、通らんで』と言い出し、それに反発した平島さんが西松に移ったのです」
移籍は93年3月のこと。平島栄は、西松建設社長だった柴田平から三顧の礼をもって迎えられたという。
平島拉致事件
折しも、平島の西松移籍は、建設族議員のドン、金丸信が東京地検に逮捕された時期と重なる。ゼネコン汚職事件の嵐が、業界を襲ったころだ。西松建設の柴田は金丸の後ろ盾を得て、会社を大きくしてきた立役者とされた。金丸逮捕は、ゼネコン業界をかつてないほど揺らした。金丸の信頼が厚い平島が、大林組を追われたのは、そんな時期だ。
建設族のドンの失脚と業界天皇の電撃移籍というダブルショックにより、業界の秩序は乱れた。結果、それを利用しようとする動きも生まれる。わけてもこれまで関西の事業にあぶれてきた建設業者にとっては、好機だった。水谷建設の元役員が言う。
「当初、関空の事業に加われなかったのが水谷建設でした。平島さんが宮本組を可愛がっていたせいだと思いますが、このときが巻き返すチャンスだったのです。あの平島拉致事件はそんな折の出来事でした」
【前編を読む】“昼からマージャンで20、30万円を賭け…” 関西建設業界のドンが明かした“談合”の実態