第二次大戦中、陸軍少尉として沖縄戦を体験していた坂本の父は、戦後に刑務官の道を選び、働き盛りで配属された大阪刑務所の立て直しに燃えていた。新入教育の規定を作成したり、処遇改善を要求したり、献身的に仕事をしていたが、6月頃から、不眠を訴えるようになった。診断の結果はうつ病。労災病院に入院を余儀なくされた。
夏休みになると坂本も帰省をして毎日のように見舞った。ある日、病床で気になることを父は言った。「敏夫、お前は刑務官になる気はないか?」。丁寧に断ったが、それが最後にかわした言葉となった。父は翌日の8月10日に病院の8階から身を投げたのである。
「午前4時頃でした。家に連絡があって、その日は大雨でしたが、発見されたときはまだ息があったそうです」(坂本・以下同)
一家の大黒柱を失い、このままでは家族が路頭に迷う。母も高校生の弟もいる。大阪刑務所の父の同僚たちは、坂本に刑務官の試験を受けることを勧めた。坂本は野球の夢をあきらめ、大学を辞めて採用試験に向けての勉強を開始した。秋の受験で見事に合格を果たした。
「ニューギニア戦線」と「沖縄戦の記憶」
「当時の刑務所施設は全員が家族みたいなものです。だから、管理部長が亡くなった、気の毒だ、官舎を追われて妻子は住む家も無くなる、でも息子が刑務官になったらそのまま住み続けられるから、と言われて、1967年1月から父が勤めていた大阪刑務所に奉職することになりました。そこでうちの親父と奥崎の関係がいろいろと分かったんです。
大阪の収容人員は3000人で規模が大きい。不正も看過されていて、前任地の広島の実績を買われていた親父は着任直後からここを正そうとしたわけです。そんな中で奥崎が管理部長面接願を出して来たんです。受刑者の権利として所長や管理部長への面接が担保されていたんです。
とは言え、願い出を受けた側は大抵、部下の課長や課長補佐に代理面接をさせて逃げてしまうのですが、うちの親父は受刑者のことを考えていたので自分で直接会っていたんです。所長はいても現場の最高責任者は管理部長なので、奥崎は新しいトップはどんなやつかな、という興味で面接願いを出したんじゃないでしょうか。
父は4月1日に大阪刑務所に来て、6月ぐらいから体調を壊して入院するんですが、後から聞くとこれが奥崎との面接のタイミングと符合していたんです。そこで奥崎はニューギニア戦線を生き残った自分の話をするんですが、これが父の沖縄戦の記憶をよび戻したんです。なんで俺は生き残ったんだ、民間の人たちを守れなかったんだというフラッシュバックですね」
坂本の父は大学を出た後に士官学校を卒業しており(俳優の池部良と同期であった)、20万人以上の犠牲者を出した沖縄戦では小隊長として軍司令部のある摩文仁の丘での玉砕戦の現場にいた。左腕に銃創を受け、部下が汲んでくれた海水で消毒をしていたという。米軍戦車の水平砲撃を受け、その部下も命を落とし、部隊で生き残ったのは、自身も含めて3人だった。独立工兵隊の兵士として地獄のニューギニア戦線を体験した奥崎との対話の中で記憶が蘇り、心を病んだのではないかと父の同僚の刑務官たちは言うのである。