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8月15日の「小遣い」と伝えられた言葉

「私も刑務官になってから直接、奥崎からニューギニア戦線の話を聞いたのですが、お前の親父ほど物分かりのいい幹部は居なかったと言うんです」

 管理部長と不動産業者殺しで独房に入っていた受刑者。刑務所内の地位と立場は異なれども互いに未曽有の戦争体験をしていたことで、共鳴するものがあったのか。奥崎のニューギニアへの深い慟哭の思いは映画を見れば容易に理解できる。坂本の父は奥崎との出会いの中でそれを聞かされ、封印していたはずの心の中の大きな傷口が決壊し、自死に向かった……。結果的にそれで坂本は刑務官の道を選ぶことになった。

沖縄戦の最大の激戦地であり、終焉の地でもある摩文仁の丘

「思えば、うちは男の3人兄弟なのですが、兄弟で共有する父親の一番いい思い出というのがあるんです。僕らが小さい時、8月15日に必ず好信、敏夫、哲夫と名前を呼んで、正座をさせ、そして小遣いをくれるんです。そのときに必ず『いいか、絶対に戦争だけはするなよ』って100円札を手渡してくれました。そういう父親だった。

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 僕が小学生の頃、父は法務省勤務で宿舎は東京池袋のスガモプリズン官舎(スガモプリズンはGHQが東京拘置所を接収した戦犯収容施設で1958年に返還される)。夏になると父親はふとんの中でよくうなされていました。戦争を思い出していたんですね。だから8月10日に自殺をしたのは、15日が来るのが怖かったのかもしれません。とにかく大阪刑務所での父と奥崎との面談が無ければ、自分は父親にも断ったように刑務官にはなっていなかったですね」

神軍平等兵になる前の奥崎

 奥崎が自らを神軍平等兵と名乗り、「ヤマザキ、天皇を撃て!」とニューギニアで餓死した戦友ヤマザキの名を叫び天皇にパチンコを撃つ、あるいはデパートの屋上から天皇ポルノビラを撒く、といった天皇の戦争責任を直接的に問う行動を起こすのはこの大阪刑務所で10年の刑期を終えてからである。妻、シズミの生前の証言に拠れば、それまでの奥崎は極めて寡黙な人物であり、日常から声高にアジテーションをするようになったのも出所後であったという。

 では神軍になる以前の彼はどのような天資、賦質であったのか。19歳で家族を養うために大阪刑務所の職務についた新人刑務官坂本はその時代を知る。

「奥崎は向こうから会いたいと伝えてきました。大阪刑務所は1区から4区まで区分されていて、彼は3区の独房にいました。3区は900人くらい収容者がいるのですが、一番処遇が厳しい。ほぼ半数が暴力団員なんです。

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 奥崎は暴力団ではありませんが、その独房にいて、担当に『今度、管理部長の息子が入っただろ。呼んでくれ』と伝えてきたので、それで私は会いに行きました。右も左も分からない私にすれば奥崎謙三がどんな人物かも知りませんよ。私を呼んだのは、多少、父親が死んだ原因は自分にあるのかという思いもあったのかもしれません。彼は優しくて真面目で立派でした。変にいきがるわけでもなく、刑務所に勤めに来ているみたいな感じでした」