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連載刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち

極限状態のジャングルを生き抜き天皇をパチンコで撃った元日本兵…寡黙な男を駆り立てたもの

極限状態のジャングルを生き抜き天皇をパチンコで撃った元日本兵…寡黙な男を駆り立てたもの

「国に借りは作りたくない」奥崎謙三という囚人 #1

2021/03/13
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“国からの恩恵”は「冗談じゃねぇ」「国に借りは作りたくない」

――奥崎は相手を見てやっているわけですね。

「相手を見ていました。刑務所において区長とか課長とか幹部は転勤が出世の街道です。そうすると、居るのはせいぜい2~3年なんです。この間、大過なく過ごせばいいので、トラブルは極力ないようにする。そういう役人を奥崎は見透かしていたんでしょうね。

 それから、彼の信念は、仮釈放を狙わずに満期で出所すること。結局仮釈放というのは、国からの恩恵ですから、そんなの冗談じゃねぇということでしょう。国に借りは作りたくないという姿勢ですね。

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 要するに、自分のやったことを反省するようなことも言わなきゃいけないし、ちゃんと工場に出て真面目に仕事をしないと仮釈放はもらえない。しかし、不動産業者を刺したのは自分なりに考えての出来事なので罪自体を後悔はしないし、ましてや戦争の経験から国に借りを作るのはイヤだというのでしょう。だから初犯で入った大阪刑務所も10年きっかりでした。

 一方で処遇困難者ですが、いわゆる好訴性受刑者(不平不満を上級庁や検察庁、裁判所に訴えることを好む受刑者)ではありませんでした。大阪拘置所には、神戸洋服商殺人事件(1951年)を起こして死刑判決を受けた孫斗八という人物がいて、彼は死刑は憲法違反だとして、初めて行政訴訟というのをやっているんです。それに触発をされてか、以降、全国的に受刑者が裁判所に告訴、告発、訴訟の申し立てをすることが相次いだわけですが、奥崎はそういうタイプの男ではなかったです。彼は自分の減刑にはまったく興味が無かったんですね」

©iStock.com

「他の受刑者たちにアジテーションをするのではないか」

――3区は暴力団がほとんどとのことでしたが、そこでもやはり孤高を保っていたということでしょうか。ちなみに他の区はどのような受刑者が入っていたのでしょう。

「そうですね。奥崎は3区の中で人相風体も違っていました。

 1区と2区は窃盗等の財産犯、暴力団関係者でも問題の少ない者たちを収容していました。1区には独房がないので特に行状の良い者を選んでいたようです。2区は3区と舎房等、ほぼ同じ造りでしたが、高度な技術と注意力を要する刑務作業を行っていました。鋳物工場、金属工場、洋裁工場の他、特筆すべきは造幣局の依頼で1円玉を作っていたことです。

 4区は初犯の長期刑収容者なので、雰囲気は暗く不気味なところがありました。ただ刑が長いので唐木細工といった工芸品を作る工場、印刷工場には優秀な受刑者がいました。国公立の大学入試問題や、馬券、車券、舟券の印刷をしていたのには驚きました。これで金もうけを考えない受刑者はいなかったと思います。

 4区は後に歌手の克美しげるが来ました。懲役10年でしたが、仮釈3年をもらって出ています。余談ですが、彼が入っていた時は、一流歌手が慰問に来るんです。島倉千代子さんとか同じ事務所だったのでしょう。3区も大きな木工場とか金属工場がありますが、やはり他の区と雰囲気が違って殺伐としていました。奥崎が工場に出されずに独居房にいたのは、他の受刑者たちにアジテーションをするのではないかと見られていたのもひとつの要因です」

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