――それはどういうかたちでの面談になるのですか。
「独房は煉瓦造りの3階建て、奥崎はその2階にいました。昔の独房ですから廊下側に窓はありません。施錠された樫材の重厚な扉にある視察孔を開けて声をかけるわけです。初対面でそこで親父の話をしてくれました。同じ戦友みたいな立場でよく話が分かり合えたみたいなことを言っていて、その時に、自分がニューギニア戦線にいた事を話してきたんです。
私も『僕の小学校3年生の担任の先生がニューギニアから帰った人だった』と言ったら、興味があったんでしょうね。『なんていう人?』と聞くから、『久保田先生と言うんだけど』『それは知らないな』と、そんな会話をしていました。やはりニューギニアというのは特別なワードだったようです。『今の若いあんたらは親のおかげで3食ごとに飯を食ってるけど、俺たちはモノなんか食えなかったんだ』。結局、南方の日本軍は物資の補給線を断たれて負けているわけですから」
「お父さんにはえらいお世話になりました」
――いきなり自身の背景について語っていたのですね。当時の彼はどんな様子でしたか。
「3区の独房に入れられていたくらいですから、処遇困難者とはされていました。しかし、私には、ある意味友だちの息子みたいな感じで接しているような感じがしました。『この仕事は大変で、ここは所長も含めて、ろくな幹部は居ないけど、辛抱せないかんで』みたいなことを言ってくれました。
私と奥崎の会話があまりに長くなったので、担当が様子を見に来ました。3区独居舎房の担当は超ベテランの、本当に人徳のある刑務官なんです。そういう人間でないと抑えきれないからです。心配になって来て『おい、どうした』『いえ、ちょっと父親の話もしていたので』。そうしたら、奥崎が、『変なこと言わないから、もうちょっとしゃべらせえ』と言うと、担当は黙って扉を開けてくれました。すると奥崎は入り口で正座をして、あらためて『お父さんにはえらいお世話になりました』と言って迎えてくれました」
――その後も頻繁に会話はされたのでしょうか。当時の奥崎謙三の所内での行状はどのようなものでしたか。後にあのような行動を起こすということは予想されたのでしょうか。
「巡回の度に、おい、奥崎と声掛けをしましたし、かなり会話はしました。彼が当時服役していたのは、店子の足元を見ては不当な契約を迫る評判の悪い不動産業者に対する傷害致死事件ですから、政治犯、思想犯ではありません。ただ、私利私欲が無い人だなというのは感じていました。少し知的障がいを持った受刑者がいたんですが、その子の面倒を見るんですよ。『あいつ、金ないし、ちょっとこの石鹸やってくれ』みたいなことを私に言って来ました」
――坂本さんに? 独房でも他の受刑者のことが分かるのですか。
「はい。毎日運動の時間を取りますから。独居の運動場に20人ぐらいずつ出すんです。だから、そこで弱い立場にある人間を見かけたんでしょうね。石鹸については断りました。受刑者間の物のやり取りは反則行為になりますから、『分かった、ちゃんと事務所に言って渡すから』と言って、正規の手続きを取りました。奥崎は、私とはそんな感じでしたが、幹部連中には従順では無いので、すごく煙たがられていました。だから、幹部からは、私が巡回をすると何の話をしたのかと、必ず聞かれました」