奥崎氏の大阪刑務所(堺市田出井町)での服役中の行状等を下記の通り報告します。
記
1 元大阪刑務所刑務官3名の方から電話録取
2 背景
大阪刑務所は、昭和30年代はじめは、超過剰収容で収容定員2500名のところ、5000人を収容、漸次減少し、奥崎の出所時は3000人に。ちなみに現在は1500人と激減している。
3 奥崎氏の収容分類級
LA級に分類されていた。(Lは長期long刑の初犯・Aは犯罪傾向が進んでいない)
大阪刑務所第4区(航空写真の庁舎左の放射状舎房がある区画)に収容。知能検査、適性検査、資格・職歴などによって金属工場に出す。入所時の舎房は雑居房。
作業内容はプレス、ボール盤、旋盤など。当初は行状も作業成績も良好。
4 トラブルメーカーに変身
2年目、3年目は工場内での他の受刑者との喧嘩口論などのトラブルを度々起こし、その都度、一時独居拘禁の後、異なる工場(金属工場の他、木工場、洋裁工場)に出す。その後、5年目までには幹部職員とのトラブルも頻発。ついに第4区から第3区に移す。第3区でも数度、工場に出すが長続きせずトラブルを起こす。6年目以降は出所まで、本人の希望もあり独居生活を送った。
受刑者とのトラブルの原因でいくつか考えられるのは、第4区は、ほとんどが殺人者。「俺の殺人とお前らの私利私欲や欲情によるものとは違う!」という、いわばプライドではないかという評価だった。第3区でのトラブルの相手は、やくざ者とギャング。ここでも、「俺は破廉恥な犯罪者じゃない!」という思いがあったようだと分析された。幹部職員とのトラブルは威圧的、高圧的な態度に対する憤懣によることからはじまったようだが、いつの頃からか、意識的に喧嘩を売るようになる。騒げば騒ぐほど、反抗すればするほど、処遇は緩やかになり、優遇される。そんな体験からだろう。おそらく、「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない! 国家権力など大したことはない」と思い至ったのではないかと、思われる。
いずれにしても、出所前の数年は大阪刑務所でも5本の指に入る処遇困難者。第3区の独居房で、幹部職員に煙たがられながら、本人にとっては快適な服役生活を送ったのだろうというのが、元刑務官たちの奥崎氏に対する共通の思いでした。以上
すでに処遇をしてから55年以上が経過しているにも関わらず、これだけの報告が上がってくるとは、いかに強烈な記憶をもたらす存在であったことか。
坂本が「答え合わせ」のようでしたという意味がよく分かった。3区において「俺の殺人とお前らの私利私欲や欲情によるものとは違う!」というプライドを保ち、トラブル相手のやくざ者とギャングを前にして「俺は破廉恥な犯罪者じゃない!」と見下す。大阪刑務所で5指に入る処遇困難者は、出過ぎた杭は打たれない! という真理をその懲役経験から体得していたのであろうか。