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連載刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち

《差別を訴えた殺人犯の“特別待遇”》「これでは召使いだ」とぼやいた看守…英雄視された人質立てこもり犯の刑務所生活

2021/05/15

 親子三代にわたって刑務所の「看守」として務めた元刑務官・坂本敏夫氏。その長きにわたる刑務官生活の中で、数多くの受刑者たちと関わってきた。

 今回は人質立てこもり事件をおこし、在日差別を訴えた受刑者・金嬉老について。1960年代後半に社会に大きな衝撃を与えた金嬉老事件だが、彼のその後の刑務所生活もまた、大きな波紋を広げるものだった。

坂本敏夫氏 ©文藝春秋

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 金嬉老による寸又峡(すまたきょう)事件が起きたのは、1968年2月20日である。

 借金返済によるトラブルから、静岡県清水市(現・静岡市)のナイトクラブ「みんすく」で暴力団員二人をライフル銃で射殺した在日コリアン二世の金嬉老は犯行後、寸又峡温泉のふじみや旅館に向かった。

 M1カービン銃の弾倉を付けた猟銃M300とダイナマイトで武装すると宿泊客13人を人質にとって立てこもり、自ら警察に電話をして居場所を明らかにする。そして人質を解放する条件として、清水署の小泉勇刑事に民族差別に対する謝罪を要求したのである。かねてより小泉刑事は朝鮮人差別の言動で知られた人物であったという。

 籠城をする中でテレビやラジオでの中継を入れ、記者会見を開くことで事件は劇場型犯罪の様相を呈していった。カメラの前で在日朝鮮人への差別を糾弾し続けたが、立て籠もってから5日目に逮捕された。人質を取ったことについて「差別を世間に訴えるには、こうした騒ぎを起こすしかないから」と語った発言が当時の新聞には掲載されている。 

「差別と戦った英雄」の逮捕後

 逮捕後には、多くの日本の学者、作家、文化人たちによって公判対策委員会が結成されて、裁判に向けての支援運動が始まった。1972年6月に静岡地裁が下した1審判決は「朝鮮人として受けた被差別の生い立ち等も考慮する」として無期懲役であった。

 これに対して弁護団側は「日本の国家および日本人裁判官に金嬉老を裁くことはできない」として控訴。検察は「民族差別は問題のすり替え」と主張して、最高裁まで争うことになったが、事件から7年が経過した1975年に1審判決がそのまま確定した。獄中にありながら、韓国から来た女性と結婚し、そのこともまた話題になった。

 その後、金嬉老は24年間を獄中で過ごし、1999年に韓国への強制送還と日本への再入国の禁止を条件に仮釈放を受けた。帰国した1年後に愛人女性の夫に暴行を加え、その家を放火するという事件を起こし、現行犯逮捕される。韓国では差別と闘った英雄として迎えられた金であったが、再びの懲役生活を送り、2010年3月に釜山で病死する。