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他の事件と金嬉老事件が決定的に違うこと

――拘置所の規律が乱れるような事件は他にもあったのでしょうか。

「暴力団組員がしばしば引き起こしていました。昭和38年(1963年)の広島拘置所事件、昭和40年(1965年)の松山刑務所内拘置場事件がそれです。

 いずれも暴力団抗争によって逮捕された多数の組員による規律紊乱(ぶんらん)事件です。大勢の暴力団組員による暴力と威迫・脅迫によって現場職員の士気が落ち、居房の出入りが自由になって、酒やタバコ、甘味品の不正差し入れなどを許してしまったのです。

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 広島は死刑囚の脱走事件がありました。松山は暴力団員に買収された刑務官がいたことでやりたい放題でした。女性の房にも行き来が自由になり、後に松山ホステス殺人事件を起こす福田和子(当時19歳)も勾留中だったのですが、彼女も性被害に遭っています。殺人事件を起こしてから、約15年も逃亡した動機はここにあったんですよ」

――言わば刑務所に対する絶望的な不信。あの場所でモラルが崩壊すると弱い立場の人が真っ先に被害に遭うのですね。

「あってはならない酷い事件でしたが、こちらの2件は所長以下幹部職員には長期間気付かれずにいたという点で、あくまでも地元に住む現場刑務官の責任でした。刑務所幹部自らが規律紊乱の原因をつくった金嬉老事件とは全く性格を異にしています」

1999年、仮釈放になり韓国の慶州・石窟庵で観光客と握手する金嬉老 ©文藝春秋

誰が「その後の金嬉老」を作り出したのか

――無期懲役が確定し、受刑者になった金嬉老はその後、どうなりましたか。

「30年近く服役した熊本刑務所でも特別処遇を受けていました。刑務所幹部に取り入るかに見せかけて、脅しを掛ける。課長以上の幹部職員のほぼ全員が持っている出世欲、その前提にあるのが保身であることに彼は静岡刑務所での事件の際に気づいたのでしょうね。殺害した暴力団関係者からの報復の危険があると訴えるとともに、外部の識者との文通を続け、自分の希望を聞き入れなければ刑務所の不当な取り扱いを暴露するといった脅しを仕掛けるのです。

 刑務所幹部は金嬉老の処遇基準を策定しました。

・暴力団関係受刑者からは分離し個別処遇をすること。
・居房は独房とし、工場も単独で作業ができるところに配置する。
・専属の処遇担当職員を指名する。
・この職員はボディガードの役割も担うこととして、武道有段者をあてる。

 ざっと、こんな基準です。その結果、金嬉老は木工場の外に設置された焼却炉の専属、木片やおがくずなどを焼く作業で湯も沸かせるので毎日入浴できるし、食事も好きなものを特別給与させるなどの特別処遇を受けていたのです。

 指定された刑務官はボヤいていました。これでは『受刑者の更生支援をする矯正職員というポリシーで看守になったのに、金嬉老のお守り役兼ボディガードで、まるで召使のようだ』と」

――刑務所は犯罪者の更生のためにあると考えている坂本さんからすると、そのような特別待遇を認めてしまったことによって金嬉老をスポイルしてしまったということに対する怒りもあるわけですね。

「ええ、仮釈放で出所して韓国に行ってからの彼の行状を見てもそうです。またしても殺人未遂、放火という犯罪を起こして逮捕されてしまった。日本における差別の中で殺人を犯した金嬉老に対して日本の刑務所は更生させるどころか、ひたすら弱腰で、無責任にも放置してしまった。結果、彼を救えなかったわけじゃないですか。

 刑務官であった私が考える金嬉老事件は、たった一人の男(殺人と監禁、銃刀法違反事件の犯人)に国家権力の象徴のような刑務所が翻弄、愚弄され、更生施設、拘禁施設としての信頼を失墜させられたという恥辱事件でした」

 金嬉老をアンタッチャブルな存在として処遇と更生の責任を放棄し、言われるままにトップが「優遇」してきた刑務所の行為には、在日朝鮮人だけでなく、性被害に遭った女性受刑囚など、他の様々な来歴の果てに檻の中に行き着いた人々への「存在の蔑視」が、明らかにあったのではないか。そしてこの「優遇」それこそが、差別ではなかったか。

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坂本敏夫氏の最新刊『囚人服のメロスたち 関東大震災と二十四時間の解放』は5月20日に発売予定です。