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刑務所業界における金嬉老とは

――寸又峡の籠城事件があったのは、坂本さんが父親の跡を継いで刑務官になられた1年後の1968年だったわけですが、行刑界(刑務所業界)における金嬉老とはどのような存在であったのでしょうか。

「寸又峡旅館監禁籠城事件で金嬉老は人質を盾に、テレビやラジオを利用して今で言うところのライブ中継をして一気に有名になりました。犯罪の動機を在日朝鮮人として受けた差別をその理由に掲げたことから、大学教授や作家、研究者ら多くの支援者を得ました。私は当時、静岡や熊本で直接処遇に当たった刑務官の方との交流や連絡もあり、早い段階から、どのような存在であったかを聞いていました。

 金嬉老は逮捕後、起訴されると静岡刑務所内の拘置所に移監され、そこで、静岡刑務所幹部に『自分の要求をのまなければ、支援者に救済を求める!』と、刑務所が最も嫌がる外部の著名人への訴えを示唆して、房内での所持を禁止されている物品所持の要求等を次々に行っていきました。

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 マスコミの報道を気にしていた幹部たちは、当初、これぐらいなら大した問題にはならないだろうという小さな要求を許可しました。ところが、そこからどんどんと特別待遇が始まったのです」(坂本氏・以下同)

1968年2月24日、手記を発表する金嬉老 ©共同通信社

「差別と戦うヒーロー」を在日コリアンの受刑者たちはどう見ていたのか

――坂本さんは当時、大阪刑務所の刑務官だったわけですが、大阪の所内での金嬉老事件に対する反応はどのようなものだったのでしょうか。

「日本の文化人たちは金嬉老を差別と闘うヒーローとして英雄扱いしていましたが、大阪の在日コリアンの受刑者たちは英雄視どころか、とても憤っていました。

 事件当時の大阪刑務所は約3000人が収容されていて、収容施設が1区から4区まである中で、一番処遇の厳しい3区には900人が居ましたが、その半分は暴力団。そして、その内の多くは在日韓国・朝鮮人でした。彼らも幼少期から筆舌に尽くしがたい差別にあって就職も出来ない、それで仕方なく組に入っていたという半生を私もよく聞いていました。

 そんな彼らが異口同音に金嬉老に対してすごく怒っていました。『わしらも犯罪を犯して刑務所に入って来とるわけやけど、その理由を全部朝鮮人で差別を受けたというせいには絶対にしとうない。人を殺しておいて、差別のせいにして減刑を望む金嬉老だけは許せん。わしらも誤解される。ここ(大阪刑務所)に落ちて来たら絶対にしばいたる』と言っていました。

 実際に酷い差別に遭いながらも人を殺さずに抗議をしている在日の人たちの方が多数いたわけですから、日本人がそういう人たちに目を向けずに金嬉老だけを英雄視するのは私もおかしいと思っていました。

 金嬉老自身は『他の在日朝鮮人も差別を受けているのに殺人は犯さないではないか』と問われると『それは勇気が無いからだ』と答えたといいます。私にいわせれば、殺人を犯さずに反差別の運動をしている人の方が勇気がありますよ。そして在日朝鮮人の犯罪者でも立派に立ち直った人たちが沢山いるのに彼はそうならなかった」