「暴対法」の適用で、社会から徹底的に排除される存在になったヤクザたち。しかし、かつての日本には人々から一種の憧憬の的となるヤクザがいた。熾烈な生存競争を勝ち抜き、のし上がってきた侠(おとこ)たちは、どのように生き、どのように散ったのだろう。

 フリーライターの山平重樹氏が、際立った個性を持つ昭和のヤクザを取り上げた著書『伝説のヤクザ18人』(イースト・プレス)を引用し、北海道で“雁木のバラ”という異名で知られた男の人生を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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“枯木のバラ”に転化する異名

 今日もネオン街で夜な夜な歌われるカラオケの、とくにその筋の男たちのスタンダードナンバーともいえる曲の一つに、『484のブルース』という歌がある。

 その1番の歌詞はこうである。 

義理や人情にあこがれた

十九 はたちが花だった

ここはその名も雁来町(かりきちょう)

いきつく所は承知のうえで

ままよこの道おれは行く

 

(作詞:平田満、高月ことば 作曲:平田満、野崎真一)

 484というのは、札幌市東苗穂(ひがしなえぼ)四八四番地の「札幌刑務所」を意味し、目と鼻の先にある町が雁木町であった。

 実は、この歌のモデルとも目される北海道伝説のヤクザが存在する。その名も“雁木のバラ”の異名で呼ばれた男だった。

©iStock.com

 男の生まれ育ったのが雁来町で、本名を荏原哲夫といったことから、“雁木のバラ”の異名はついたのだが、それは“枯木のバラ”にも通じ、その凶々しい響きが男にはなんとも似あっていた。荏原には、「ヤクザという不毛の地──枯木に狂い咲いた狂熱のバラ一輪」という趣きがあった。

31歳で非業の死

 “雁木のバラ”が、戦後の北海道ヤクザ界を彗星のように駆け抜け、31歳という男盛りのうちに、手に手に日本刀、仕込杖、硫酸、拳銃を持った対立組織の刺客たちに襲撃され生命を散らしたのは、昭和31年2月18日のことだった。白昼の札幌・ススキノでの出来事だった。

 翌2月19日付の北海道新聞が、その死をこう伝えている。

十六日午後、札幌市薄野(すすきの)付近で発生した不良乱闘事件の際、腹部貫通銃創を受け同市保全病院に収容されていた市内雁木町二、無職“雁木のバラ”こと荏原哲夫さん(31)は事件後こん睡状態を続けていたが、十八日午後八時四十五分に死亡した

 かくて“雁木のバラ伝説”は生まれるわけである。

 その死を遡る7年前、昭和24年4月、雁木のバラは札幌で売りだし中のテキヤの兄ィを刺殺し、懲役5年の刑を受けている。

 まだ終戦間もない時分の北海道は、一種の戦国時代で、土地ごとに名の売れた愚連隊が群雄割拠していた。札幌ではそのころ、愚連隊やヤクザの殺しあいも立て続けに起こっていた。強い者を叩くことが売りだす早道であったから、愚連隊でもヤクザでも力のある者がいつも狙われる運命にあった。

 このテキヤの兄ィ殺しを機に、札幌の一匹狼“雁木のバラ”は北海道ヤクザ界にその名を馳せていく。